《老子(ろうし) 》

  

中国春秋時代における哲学者。 

道家(日本で云う宗派)は老子の思想を基礎とするものであり、老子を始祖としています。 

「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられています。また、子は先生と云う意味もあり老先生という解釈もできます。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いた人物です。 

  

最近では、老子(老子道徳経)は一人の人物が書いたのではなく、数人の人物によって書かれた書物と言われています。 

  

史記の記述によりますと、老子は紀元前6世紀の人物とされていますが、老子(老子道徳経)は、その後、数人の老子達によってまとめられた書物といえます。 

 

 

史記に老子は、姓は李(リ)名は耳(ジ)字は聃(タン)といい。楚の苦県(現在の河南省周口市)厲郷の曲仁里という場所の出身で、書庫の記録官を勤めていたと記されています。 

 

孔子(紀元前551年 ~紀元前479年)が礼の教えを受けるために赴いた点から、同時代の人間だったことになります。 

老子は道徳を修め、その思想から名が知られることを避けていました。しかし、長く周の国で過ごす中でその衰えを悟ると、この地を去ると決めました。老子が国境の関所(函谷関)に着くと、関所の役人である尹喜(いき)が「先生はまさに隠棲なさろうとお見受けしましたが、何卒私に教えを書いて戴けませんか」と請い、老子は応じた。 (上記の絵=受け渡しの様子)

 

これが後世に伝わる『老子道徳経』とされています。この書を残し、老子はいずことも知れない処へ去ったといい、その後の事は誰も知りません。 

  

それでは、尹喜へ渡されたとさせる「老子道徳経」は、道偏(1章~37章)と徳編(38章~81章)に分かれています。それでは、一章づつ見ていきましょう。

 

《老子道徳経 》

(道編) 

1章  

道可道、非常道。名可名、非常名。無名天地之始、有名万物之母。故常無欲、以観其妙、常有欲、以観其傲。此両者、同出而異名。同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門。 

 

道と示すことができる道は道ではなく、名と示すことのできる名は名ではない。無名は天地の始まりであり、有名は万物が生まれる母体である。故に無欲であれば微妙なるところを認識できるが、欲望にとらわれるなら末端現象を見るに止まるであろう。この両者は、根本は同じであるが名は違う呼び方になる。根本の同じところを玄(奥深い深淵)と名づけ、そこから諸々の素晴しい働きをもつものが生まれるのである。 

 

  (太極拳を学ぶとは道に近づき妙を味わい人生に生かすことである) 

大いなる道(TAO)との合一=道芸 

老子は道芸の奥義書 

太極拳の套路を行えば、自分の人体の奥底に「道」TAOの存在を感じるでしょう。 

私達の行動は全て目に見えないものによって支えられていることに気づく…何故なら、全てのモノは、その名の裏に在るものによって支えられているからなんです。自然のリズムに身を委ねる。老子道徳経は万物の理法が書かれています。 

    現在我々の行っている太極拳は中国政府が定めた太極拳であるが、楊式も陳式も同じ太極拳という名がついています。ところが、上記の太極拳は微妙な違いがあることは練習してみれば分かります。太極拳という名にとらわれると、その本質が見えてこない場合があります。名前にこだわってはいけない、その本質を見極めることが大切。と、老子は論じているわけです。が、しかし最終的には上記太極拳は共に「道」TAOを求めていることに違いはありません。 

  

2章 

天下皆知美之為美、斯悪巳、皆知善之為善、斯不善巳。故有無相生、難易相成、長短相形、高下相傾、音声相和、前後相随。是以聖人処無為之事、行不言之教。万物作焉而不辞、生而不有、為而不恃。功成而弗居。夫唯弗居、是以不去。 

 

世間は皆、美しいモノを美しいモノとしてとらえるが、それは醜いモノであって、善いモノを善いモノとしてとらえるが、それは善くないモノでもある。有る無し、難しい易しい、長い短い、高い低いというものは、互いに相手が存在するからこそ差が生まれる。このことを相対界の世界といいます。音色と肉声は、互いに相手があるからこそ調和しあい、前と後は互いの存在によって順序づけられます。聖人はこれをわきまえ、無為の立場に身をおき、不言の教えを行う。万物に動きがあってもそれについて発言せず、物を生み出してもそれを生み出したものとせず、成功してもそれに頼ることはない。功を成してもそれに居座らない。居座らないからこそ、離れることもないのである。 

 

   (太極拳は対になる陰陽の展開から新しきものを得る)

球体は陰陽で6と9で出来ています。6は入るエネルギーで9は出るエネルギーです。優劣はありません。お互い種類の違うエネルギーです。般若心経の無(6)空(9)の概念でもあります。 

陰の中に陽があり、陽の中に陰がある。言い換えれば、陰があるから陽があり、陽があるから陰があるのです。お互いの存在を認め合うこと。太極とは相反する対ではあるが、その相反するものを認め合う拳であり、それは平和、調和を目指す拳に他なりません。 

包拳礼は、右手で日を表し左手で月を表します。「明」みんですね。明るい世の中を顕現させる目的と平和な世を作る目的で集い誓う挨拶の意味があります。

大切なことは、右手の拳面を相手に見せることです。拳面が下を向いていると、今から戦うぞ!と、いう意味になります。全然違いますので注意が必要です。これを知らない指導者も多い。包拳礼でレベルがわかってしまいます。

 

3章 

不尚賢、使民不争。不貴難得之貨、使民不為盗。不見可欲、使民心不乱。是以聖人之治、虚其心、実其腹、弱其志、強其骨。常使民無知無欲、使夫知者不敢為也。為無為、則無不治。 

 

優れた者を大事にしなければ、民は争わない。入手困難な珍品を貴重としなければ、民は盗みをしなくなる。欲を刺激するものを見せなければ、民は心を乱さない。聖人はこれをわきまえ、人を治めるときには、心を空にさせ、その腹のほうを満たし、望みを弱め、その骨のほうを強くする。民を無知無欲の状態にして、知者がたぶらかそうとしても無効とする。このように無為(特別なことをしない自然な行動)をとれば、物事は上手く治まるのである。

 

(太極拳を志す者は、無為自然をライフスタイルに取り入れる。) 

 太極拳は意識で氣を巡らせますが、やがてそれは自然に回るようになります。

作為があっては、その作為が相手に伝わり見抜かれます。作為なき行動が無為自然なのです。 

 

4章 

道沖、而用之或不盈。淵兮以万物之宗。挫其鋭、解其粉、和其光、同其塵。湛兮以或存。吾不知誰之子。象帝之先。 

 

道は空っぽであるが、その働きは無尽であり、満ちることが無い。底なしの深淵のように深く、それは万物の根源である。 

そしてそれは、全ての鋭さをくじき、紛れを解き、輝きを和らげ、全てのチリと同化する(和光同塵)。たたえられた水のように奥深くて、どうやら何かが存在しているらしい。私はそれが何であるかはわからないが、万物を生み出した天帝のさらに祖先であるようだ。 

 

  (太極拳は「化」をもってして、最適な状態に己を導く技術である) 

太極拳は柔をもって剛を制します。太極拳独特の力の使い方の境地は「化勁の極まり」で化とは太極拳のすべてを貫く、もっとも大切な考え、勁力です。 

和光同塵…光を和らげて塵に同じ…言い換えれば、光の様に自分を見せることなく塵の様に一定の形式を持たない。それが大いなる道の働きです。また、相手の攻撃(光)の威力を和らげて(和)無力(塵)にする(同)と、解釈します。これが太極拳の化勁(かけい)です。 

 

5章 

天地不仁、以万物為芻狗。聖人不仁、以百姓為芻狗。天地之間、其猶蠹籥乎。虚而不屈、動而愈出。多言数窮、不如守中。 

 

天地の働きに仁はなく、物事を芻狗のようにいとも簡単に扱う。聖人の行動も仁があるわけではなく、人民を芻狗のようにいとも簡単に統べる。天と地の間にあるこの世は、例えるなら風を送る吹子のようなものであろう。空っぽでありながら、生まれ出て尽きることなく、動けば動くほど生まれ出る。多言はたびたび困窮するから、空の状態を守るに越したことはないであろう。 

 

  (太極拳は無為自然を心掛け「道」と一体化する) 

太極拳の呼吸は逆腹式呼吸ではあるが、最終的には自然呼吸に心掛ける。 

箱を思い浮かべて下さい。箱であるためには、中に何もないことが条件です。空であるからこそ箱として重宝されます。また、フイゴも中が空でなければ風は起こせません。空を守るとはそういうことです。 空=無為自然

 

6章 

谷神不死、是謂玄牝。玄牝之門、是謂天地之根。緜緜若存、用之不勤。

 

谷の神は滅びず、それはいわゆる玄牝(神秘なる産みの働き)である。神秘なる産みの働きをこなす門、これはいわゆる天地の根源であり、永遠に若々しく存在するようでもあり、その働きは尽きることがありません。

 

(太極拳は生々流転と途切れることなく修練します) 

太極図は、右から左へ回る時に止まることなく変化させる暗号です。西洋の運動は右回りから左回りに変化させる時に一旦止まることを余儀なくされますが、東洋的な考えは止まることを嫌います。その工夫が太極図に描かれています。Sの字を描く様にターンすれば止まることはありません。 愛北太極拳クラブでは、必ずSの字を描いてからターンします。止まることはありません。

 

7章 

天長地久。天地所以能長且久者、以其不自生、故能長生。是以聖人、後其身而身先、外其身而身存。非以其無私耶、故能成其私。

 

天は長久、地は久遠。天地が永久の存在である所以は、自ら存続しようとしないからこそ、長く存在することができるのである。 

聖人はこれをわきまえ、わが身を後ろに置きながら先んじ、外に身を置きながらも存続する。それは欲を持たず無心であるからではないだろうか、だからこそ己を貫けるのである。 

 

   (太極拳は無為自然、捨己従人を旨とする) 

己を捨てて人に従う。…粘=あらゆる適応、変化。仏教は縁起により自己の存在があると見ます。自分以外のものに依り、自分が存在する。その反対もしかりです。自分があるから宇宙があり、宇宙があるから自分がある。捨己従人とは、そういうことです。 

 

8章 

上善若水。水善利万物、而不争。処衆人之所悪。故幾於道。居善地、心善淵、与善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。夫唯不争、故無尤。

 

上善とは水のようなものである(上善水如)。水は万物の助けとなり、争うことが無い。多くのものが蔑み避ける位置に止まっている。これは道の働きに近いといえよう。 

住むには地面の上がよく、心は深いほうがよく、仁は与えるほうがよく、言葉は信義を守るがよく、政事は治まるほうがよく、事は有能なのがよく、動くは時世のるのがよい。このように争わないからこそ間違いも起こらないのである。 

 

  (太極拳の陰陽転換運動は水の如し永遠なるもの) 

套路において陰陽の転換の「機」を知れば、天地宇宙の「機」を知ることができます。大いなる道もただ陰陽の転換にすぎません。 

 

9章 

持而盈之、不如其巳。揣而鋭之、不可長保。金玉満堂、莫之能守。富貴而驕、自遺其咎。 功遂身退、天之道。 

 

器を満たし続けようとするのはやめたほうがよい。鋭利に鍛えたものも長くは維持できない。金宝が家中に満ちている状態はとても維持し続けられない。富み驕れると、自らを滅ぼすことになる。 

事を成し遂げたら、身を退く。それが天の道というものである。 

 

  (太極拳は形から入り、やがて形を捨てる) 

三種の神器の勾玉は陰陽の白い部分の陽が目に見える形の現れです。なので目に見えない陰は有っても見えないのです。このことも私がよくクラブでお話ししています。ちなみに鏡(銅鐸)はなぜ鏡なのでしょう?答え…磨けば映る。剣は力の象徴です。形を捨てるとは、勾玉は陰陽を隠し、銅鐸は光を隠し、剣は力を隠しているのです。

 

10章 

載営魄抱一、能無離乎。専気致柔、能嬰児乎。滌徐玄覧、能無疵乎。愛民治国、能無以知乎。天門開闔、能為雌乎。明白四達、能無以為乎。生之畜之、生而不有、為而不恃、為而不宰。是謂玄徳。 

 

さまよう肉体をおちつけ道を守り、それから離れないでいられようか。気を集中して柔軟に行い、赤子のようになれようか。神秘なる心の鏡を清め、落ち度のないようにできようか。民を愛し国を治め、それで能無しのようにできようか。万物が出でる門が開閉するとき、静かでいられようか。隅々まではっきり解っていて、それで何事もせずにいられようか。 

ものを生み、ものを養い、生み出してそれを生み出したものとせず、事を成してもそれに頼らず、長となってもしきらない。これを玄徳(奥深い徳)という。 

 

  (太極拳は至柔に至り氣を蓄える) 

何故、至柔が必要かと云うと、身体の浄化に必要だからです。新鮮な氣は質の良い浄化された身体に巡ります。それで巡りやすくなるからです。固い身体は滞ります。赤子は柔らかい。老人は固い。 生命力が強いのどちらですか?判りますよね。

 

11章 

三十幅共一轂。當其無、有車之用。挺埴以爲器。當其無、有器之用。鑿戸ユウ以爲室。當其無、有室之用。故有之以爲利、無之以爲用。 

 

車輪は30もの棒が中央に向かい、中央がそれを支えることで出来ている。しかし、中央になにもない穴があってこそ車輪として機能する。土をこね固め、それで器は出来ている。しかし、器の中心が何も無いくぼみであってこそ器として機能する。戸や窓に穴を開けて家は出来る。しかし、家の中が何も無い空間であってこそ家として機能するのだ。 

このように存在して利を為すのは、そこにの働きが機能しているからなのである。 

 

  (太極拳は無と有で套路を練り空を理解する) 

空を理解するとは、空間の必要性を理解することです。例えば…ヤカンはヤカンという物の中に水を入れて湯を沸かします。解りますか?水を入れる空間が大切なんです。空間が無いと水は入れれません。 

無と有は陰と陽です。陰と陽を巡らし新たな氣を入れる身体。そう、身体に空間を作ることです。身体の空間は、至柔や至静の状態で出来上がります。 ゼロポイント・フィールドとは、前後や上下の力が相殺される位置に身体の軸を作ることにより空を作り出すところに存在します。そこに、生命の氣が集まるのです。

 

12章 

五色令人目盲。五音令人耳聾。五味令人口爽。馳騁畋猟、令人心撥狂。難得之貨、令人行妨。是以聖人、為腹不為目。故去彼取此。 

 

五色をまじえ、込み入った装飾は目をくらませる。五音をまじえ、込み入った音楽は耳を痛める。五味をまじえ、込み入った料理は味覚をそこなう。乗馬狩猟の歓楽は人の心を狂わせる。入手困難の珍品は人の行いを誤らせる。 

これをわきまえた聖人は、腹を満たすことにつとめ、目(感覚)を満たすことはしない。外にあるものは捨て、内にあるものを取る。 

 

  (太極拳は自分を知るために自分自身を練る) 

24式太極拳は、伝統太極拳の良いところを考えて考え抜いて、作り出された套路です。 

それを伝統太極拳家の方達から骨抜きの太極拳と言われたりします。 

が、しかしそれは本当の24式太極拳を知らない、もしくは軽く見られているに過ぎません。24式太極拳を作製した中国政府を甘く見てはいけません。特にその中心人物の李天麒老師は内家拳の達人であり李徳芳老師の実父です。24式太極拳の盛り上がり感は般若心経のソレと同じリズムです。 

  

13章 

寵辱若驚。貴大患若身。何謂寵辱若驚。寵爲上、寵爲下。得之若驚、失之若驚。是謂寵辱若驚。何謂貴大患若身。吾所以有大患者、爲吾有身。及吾無身、吾有何患。故貴以身爲天下、若可托天下。愛以身為天下、若可寄天下。 

 

寵愛か屈辱かでビクビクしている、それは大きな害となるものを、わが身のように貴重とするからだ。 

寵愛か屈辱かでビクビクするというのは何であるか。それは寵愛を上と考え、屈辱を下と考えて、上手くいくかとビクビクし、失敗するかとビクビクする。これが寵愛か屈辱かでビクビクするという事であろう。 

大きな害となるようなものをわが身のように貴重とするというのは何であるか。それは大きな害となるのは、自分に身体があるからである。自分に身体がなければ心配するようなことがあろうか。 

このように天下を治めようとするよりも、わが身を大切にする者にこそ天下を託すことが出来る。天下を治めようとするよりも、わが身を愛する者にこそ天下をあずけることが出来るのだ。 

 

  (太極拳は至静を目指し、合太極に至る) 

合太極…太極と合う=あらゆるものと調和します。 

起勢(チーシー)で入静し、次第に深い境地に入り、収勢(シューシー)で合太極になります。 

 

14章 

視之不見、名曰夷。聴之不聞、名曰希。搏之不得、名曰微。此三者不可致詰、故混而爲一。其上不皦、其下不昧。繩繩不可名、復歸於無物。是謂無状之状、無物之象。是謂惚恍。迎之不見其首、随之不見其後。執古之道、以御今之有、能知古始。是謂道紀。 

 

見ようとしても見えない、それを夷(形の無いもの)と名づける。聞こうとしても聞こえない、それを希(音の無いもの)と名づける。探してもとらえられない、それを微(微妙なるもの)と名づける。この三者はつきとめることができない。これらはもともと、混じり合って一つなのだ。 

その存在の上だから明るいわけでなく、その存在の下だから暗いわけではない。おぼろげな存在で明確にできず、結局は無の物へと戻り帰るのだ。これを状態無き状態、形無き形といい、おぼろげなものと呼ぶ。 

迎え見ても先頭が見えず、追い見ても後姿が見えない。古来の道を行い、それをもって今の物事を仕切れば、おおもとの始源を知ることができよう。これを道の紀元という。 

 

  (太極拳は何物にも囚われるものはない恍惚な瞑想状態に入る) 

24式太極拳を練習すると、その起承転結の流れがあることが解り、盛り上がり方からして「般若心経」と同じ流れなようであると感じるのは私だけだろうか?やはりそれは気持ちが良い。 

  

15章 

古之善為士者、微妙玄通、深不可識。夫唯不可識、故強為之容。予兮若冬渉川、猶兮若畏四隣、儼兮其若客、渙兮若氷之將釈、敦兮其若撲、曠兮其若谷、混兮其若濁。孰能濁以靜之徐清。孰能安以動之徐生。保此道者、不欲盈。夫唯不盈、故能敝而新成。 

 

古来の道をなす者は、微妙なる働きの事に通じており、その深さはとてもはかり知ることができない。はかり知ることはできないが、強いてその姿をあらわすことにしよう。 

冬の川を渡るようにためらい、あらゆる方向からの危険を恐れるようにグズグズし、姿勢を正した客のように厳粛で、氷がとけるように素直で、荒削りの木のように純朴で、谷のように深く、濁っているように混沌としている。 

濁っていながら静かで徐々に清らかになるという事が誰にできようか。安定していながら動いて生み出していくという事が誰にできようか。道を守り行うものは、なにかで満ちることは望まない。満ちようとしないからこそ、失敗したとしてもまた新たになることができるのだ。 

 

  (太極拳は無為自然の境地に至る) 

24式太極拳は24の式が連なってはいるが、練ることによってひとつひとつの式を消していき、24の式が一つの式になるように練習すべきで、このことを合太極と云う。 

 

16章 

致虚極、守靜篤。万物並作、吾以観復。夫物芸芸、各復帰其根。帰根曰靜、是謂復命。復命曰常、知常曰明、不知常、妄作凶。知常容。容乃公、公乃王、王及天、天及道、道及久。没身不殆。 

 

空虚となることを極め、静けさを篤く守る。そうすると万物はすべて成長していくが、私にはそれらがまた元に戻る様子が見える。 

物は盛んに茂っていくが、やがてはそれぞれの根に帰っていくものだ。根に帰るというのは静寂に入ることといい、それは本来の運命にもどることをいう。運命にもどるというのは常道といい、常道をわきまえていることを明智と呼ぶが、常道を知らないと、的外れの行いをしでかし悪い結果におちいる。 

常道をわきまえていればいかなることも包容できる。いかなることをも包容できればそれは偏りなき公平であり、公平であればそれは王者の徳であり、王者の徳であればそれは天の働きであり、天の働きであればそれは道に通じ、道に通じていればそれは永久である。そうなれば生涯を通じて危機に陥ることは無いであろう。

 

  (太極拳は心と体のバランスを正し、正常な状態を維持する) 

森羅万象あるがまま。作為を持たず、あるがままの状態を維持すればバランスは自然と整う。これを無為自然と云う。こうして合太極は完成する。 

 

17章 

大上下知有之。其次親而譽之。其次畏之。其次侮之。信不足、焉有不信。悠兮其貴言、功成事遂、百姓皆謂我自然。 

 

最上の者は、下々の者からその存在のみ把握されるだけである。その次は、親しまれ称えられるものである。その次は、恐れられるものである。その次は、侮られるものである。 

誠実さが不足していると、信用されなくなるものだ。ゆったり構え発言を慎重にしていれば、それで事を成し遂げられ、民は皆、我々の行いで自然に成し遂げたというであろう。 

 

  (太極拳家は大いなる道と一つになる) 

太極拳を修行して、実生活が乱れるようであれば、間違った太極拳修行である。合太極を目指せば、自然と家庭円満、社会安定して当然なのである。 

 

18章 

大道廢、有仁義。知慧出、有大偽。六親不和、有孝慈。國家昏亂、有忠臣。 

 

道が廃れて仁義が始まり、知恵が現れ偽りごとが起きた。親族が不和となり、慈愛と孝行が必要になった。国家が乱れ混濁し、忠臣があらわれた。

 

  (太極拳の修練は大いなる道の悟りを得ることにある) 

「大道すたれて仁義あり」「大道」とは、人が行うべき正しい道のこと。 

昔は大道が行われていたから仁義など必要でなかったが、後世、その大道が廃れてしまったから、仁や義などの根本の道徳が必要とされるようになったという、儒教の仁義説を非難しました。 これが有名な孔子を説教した文面です。孔子は後に老子を「龍の様な人」といって褒めたたえています。龍のような人とは、龍は雲の端にいたり、天空にいたり、とらえどころがなく、推し量ることもできないことを言います。老子はそういう人のようだと、いうことです。

太極拳は大道を得る道に他なりません。套路を通じて得る身体的なメリットは、精神を向上させ人間的高みを目指す道に他ならないからです。 

 

19章 

絶聖棄智、民利百倍。絶仁棄義、民復孝慈。絶巧棄利、盗賊無有。此三者、以為文不足、故令有所属。見素抱樸、少私寡欲、絶学無憂。

 

聖を絶ち智を棄てれば、民の利益は百倍にもなろう。仁を絶ち義を棄てれば、民は孝行と慈愛をとりもどすであろう。巧みを絶ち利を棄てれば、盗賊はいなくなるであろう。 

この三つの言葉ではまだ説明が足りないので、そこでさらに付け加えておくことにする。素をあらわにし純朴さを守り、利己心を抑え欲を減らし、学を絶ち憂いを無くす。

 

  (太極拳家は道の本質を探求する) 

物事の本質は、至ってシンプル。 シンプルな生活、シンプルな生き方に心がけます。シンプルとは、「素を見る」外的なことと、「私を欠く」という内面的なことをいい、内外ともにシンプルな状態に整えたなら、生活や生き方が万事うまくいくようになります。虚飾の捨てられたシンプルな本質が、道に通じています。

  

20章 

唯之與阿、相去幾何。美之與惡、相去何若。人之所畏、不可不畏。荒兮其未央哉。衆人熈熈、如享太牢、如春登臺。我独泊兮其未兆、如嬰兒之未孩。(ルイ)(ルイ)兮若無所歸。衆人皆有余、而我独若遺。我愚人之心也哉、沌沌兮。俗人昭昭、我独昏昏。俗人察察、我独悶悶。澹兮其若海、(リュウ)兮若無止。衆人皆有以、而我独頑以鄙。我独異於人、而貴食母。 

 

ハイとアアの言動にどれほどの差があろう。美醜の間にどれほどの差があろう。人の慎むものは、こちらも慎まないわけにはいかないが、ぼんやりしてどれほど慎むべきか判断しにくい。 

大衆はいかにも楽しそうで、ごちそうを受け、春の日に高台から見晴らしているかのようだ。わたしはひとり静まり何の気配も示さず、まるでまだ笑うことを知らない赤子のようだ。疲れ果て身の置き所もないようだ。大衆は皆有り余るほどあるのに、わたしはひとり全てを失ったかのようだ。わたしの心はいかにも愚かで、混沌として明確でない。 

世俗のものはきらびやかで輝いているが、わたしはひとり暗みに沈む。世俗のものは利口に分析するが、わたしはひとり悶々としている。まるで、みなもにたゆたう様であり、ひゅうひゅう止まぬ風のようでもある。大衆はだれもが貢献するが、わたしはひとり頑固な能無しだ。わたしはひとり周囲と異なっている。根本に養われることを大切にするのだ。 

 

  (太極拳は「内静外動」「外静内動」で「至柔」「至静」を得る) 

深い精神状態で套路を練れば、終了後に、なんともいえぬ至福感がある。

上の文章を読んで、老子の人としての本質が見えます。はじめは、なんと貧しい寂しい人かと思いましたが、勘違いと解りました。人とは違う生き方、貧しく寂しい生き方は、なにも外観に固執することではありません。人から見てそうみられることではないということです。内面に軽んじる生き方をしないということです。世の人は、ひと時を楽しく暮らせれば良いと考えます。が、しかし本当の道に近い生き方は、表面的なことではなく内面的に楽しむ生き方、人からどう見られようとも、内面的な満足を得ることが大切だということです。それが至柔至静という意味です。意識が一定の深いレベルに達する方法は、座禅や立禅に限ることではありません。むしろ一般の人たちには難しいことでもあります。ところが、太極拳の陰陽を繰り返すうちに、自然と至柔、至静に入りやすくなることは太極拳家なら誰でも経験することです。

 

21章 

孔徳之容、惟道是從、道之為物、惟恍惟惚。惚兮恍兮、其中有物。恍兮惚兮、其中有象。窈兮冥兮、其中有精。其精甚真、其中有信。自古及今、其名不去。以閲衆甫。吾何以知衆甫之然哉、以此。 

 

大きな徳を備えた者は、ひたすらに道に従う。道というものは、おぼろげでとらえどころがない。おぼろげでとらえどころはないが、その中には何かが存在する。とらえどころがなくおぼろげではあるが、その中に何かの形がある。奥深くほの暗いなか、かすかに精気が存在する。その精気は純粋で、そのなかに確かなものが存在している。 

今より昔に及ぶまで、その名が消えることはない。それは根本から諸々を統べるのだ。わたしがどうして根本から諸々を統べている事が解るのか、それは道をもってである。 

 

  (太極拳を練る「恍惚」の域に達する) 

密教やヨーガでは「大楽」と云う。 

 

22章 

企者不立、跨者不行。自見者不明、自是者不彰。自伐者無功、自矜者不長。其在道也、曰餘食贅行。物或悪之。故有道者不処。 

 

つま先立ちでは長くは立てない、大股歩きで遠くは行けない。自らをあらわす者はかえって認められず、自らを善しとする者はかえって善さがあらわれない。自らを称賛する者は成功せず、自らを誇るものは存続できない。 

これらは道からいうと、余分な食料、余計な行動である。余分な食料、余計な行動は万物がそれらを嫌うであろう。だから道をわきまえた者はそのような行いはしないのだ。 

 

  (太極拳は「曲中求直」を悟り調和を求める) 

直とは争うこと。曲とは争わない調和を求めること。争う前に争わずに済む方法を「曲を求める」と、いう。 

太極拳は病気を予防する。その前の未病を予防する。なので健康を求める武術ともいえる。 

  

23章 

曲則全、枉則直、窪則盈、敝則新。少則得、多則惑。是以聖人抱一、為天下式。不自見故明、不自是故彰。不自伐故有功、不自矜故長。夫惟不爭、故天下莫能与之争。古之所謂曲則全者、豈虚言哉。誠全而帰之。 

 

曲がりくねれば全うでき、屈折すれば真っ直ぐになれ、へこめば溜まり、破れれば新たになれる。ひかえめならば得られ、多ければ惑う。これをわきまえた聖人は道を行い、天下の模範となるのだ。 

自らをあらわさずに、かえって明確にし、自らを善しとせずに、かえって善さをあらわす。自らを自慢せずに、功を得、自らを誇らずに存続する。そもそも争わないからこそ、天下に争うことのできるものがないのだ。古にいう、曲がる者は全うできるというのは、決して虚言ではない。真の姿のまま全うし源へと返せるのだ。

 

  (太極拳は道の行、ただひたすら套路を練ることに専念する) 

太極拳を練ると、静かな意識状態になる。静かな意識状態になると欲が湧かなくなる。また、和合の気持ちも湧き徳が成就する。徳が成就すれば道に近づく。 

 

24章 

希言自然。故飄風不終朝、驟雨不終日。孰爲此者、天地。天地尚不能久、而況於人乎。故從事於道者、同於道。徳者、同於徳。失者、同於失。同於道者、道亦樂得之、同於徳者、徳亦樂得之、同於失者、失亦樂得之。信不足、焉有不信。 

 

音無き言は自然である。だから暴風は長続きせず、暴雨も長続きしない。これをおこすのはなにか、天地である。天地をして尚続けることの出来ないものを、人の手では騒いでも続けられない。これをわきまえ道に従う者は、道と同じくし、徳に従うものは、徳と同じくし、失に従うものは、失と同じくする。 

道と同じくしようとするものには、道から受け入れられ、徳と同じくしようとするものには、徳から受け入れられ、失と同じくしようとするものには、失から受け入れられよう。誠実さが足りないと、受け入れられないものだ。 

 

  (太極拳は「立つ」ことによって大いなる道の存在を感じる) 

大地に根が生えたように立つ。 

立禅の目的は、地球の重力に拮抗する筋肉群を鍛えるためです。が、それだけではありません。地球の重力は自然の法則宇宙の法則と言い換えることができます。重力を味方にするとは、自然の法則、宇宙の法則を味方につけるということです。太極拳では、それを利用します。相手の力を畜勁し軸足の沈み込みにより重力を増し、反発する力を利用して相手に跳ね返します。愛北太極拳クラブでは推手でそれをマスターします。

 

25章 

有物混成、先天地生。寂兮寞兮、独立不改、周行而不殆。可以為天下之母。吾不知其名、字之曰道、強為之名曰大。大曰逝、逝曰遠、遠曰反。故道大、天大、地大、王亦大。域中有四大、而王居其一。人法地、地法天、天法道、道法自然。 

 

あらゆるものを混成したものがあり、天地よりも先に生まれている。寂しく静まりおぼろげで、独立して不変であり、どこまで行っても危機は無い。それは天下の根本といえよう。 

わたしはその名を知らないが、道と呼び名をつけ、強いてこの名から大と呼ぶ。大であれば広がり進み、広がり進めば遠くなり、遠くなればまた返ってくる。道が大であれば、天も大、地も大、王もまた大である。宇宙には四つの大があり、王はその一つを占める。人は地を模範とし、地は天を模範とし、天は道を模範とし、道は自然な行いを模範とする。 

 

  (太極拳で心身の均衡を得、大いなる道を知る) 

套路を覚えると至静を覚え、道に近づく。 道は自然の法則そのものである。

 

26章 

重為軽根、静為躁君。是以君子、終日行、不離輜重。雖有栄観、燕処超然。奈可万乗之主、而以身軽天下。軽則失本、躁則失君。 

 

重きは軽きの根本となり、静けさは騒がしさを統率する。これをわきまえた君子は、行動するときいつも荷物を従えて、公的に栄華であっても、私的にはそれを離れ静かなものだ。大国の主を天下より軽く扱ってよいものだろうか。軽ければ根本を失い、騒がしければ王の立場は失われる。 

 

  (太極拳の「静」「重」の奥義を知ることは道を知ることに他ならない) 

重=沈 

双重の病…両足に力が掛かる安定した状態。 

太極拳では素早く動く為に双重を諫める。なぜなら、陰陽双方に均等に力がかかっている状態は、陰陽転換の状態ではないことをさし、それは変化が途絶えた状態であり、生成されない死んだ状態だからである。双重の状態で相手から攻撃を仕掛けられた場合、一旦体重をどちらかに移動しなければならず、そのわずかな時間が命取りになります。はじめから、軸足に100%体重が乗った状態であれば虚の足ですぐに攻撃できますし、すぐに動いて安全な場所へ身体を移動することができます。双重の状態が一番危険な状態であることを認識しましょう。

 

27章 

善行無轍迹。善言無瑕謫。善數不籌策。善閉無関鍵、而不可開。善結無繩約、而不可解。是以聖人、常善救人、故無棄人。常善救物、故無棄物。是謂襲明。故善人者、不善人之師。不善人者、善人之資。不貴其師、不愛其資、雖智大迷。是謂要妙。 

 

善い行動は足跡を残さない。善い言葉は傷跡を残さない。善い算術は計算道具に頼らない。 善い戸締りはカギも閉めずに開けられることは無い。善い結びは縄紐もないのに解くことができない。 

これをわきまえた聖人は、常に人を活用するから、どのような者も見捨てることは無い。また常に物を活用するから、どのような物も見捨てることは無い。これを明智に従うという。 

このように善い者は、善くない者の師となり、善くない者は、善い者の反省機会となる。しかしその師を大切にせず、その機会を大切にしないのでは、智を有したとしても大いに迷うこととなるであろう。これを要妙、微妙なる真理という。

 

  (太極拳を練ることは、大いなる道の存在に近づく。と、云うこと。)

太極拳を練ることに無情の喜びを感じる。 

 

28章 

知其雄、守其雌、為天下谿。為天下谿、常徳不離、復歸於嬰児。知其白、守其黒、為天下式。為天下式、常徳不トク、復歸於無極。知其栄、守其辱、為天下谷。為天下谷、常徳乃足、復帰於樸。樸散、即為器。聖人用之、則為官長。故大制不割。 

 

雄雄しさを知りながら、雌雌しさを守れば、天下の谷間となろう。天下の渓谷となれば、真の徳が離れることは無く、赤子の状態へと戻れよう。 

明白を知りながら、暗黒を守れば、天下の模範となろう。天下の模範となれば、真の徳が狂うことは無く、果て無き無限状態へと戻れよう。 

栄光を知りながら、屈辱を守れば、天下の谷川となれよう。天下の谷川となれば、真の徳が満ち足り、純朴の状態に戻れよう。 

荒木が散れば道具が出来る。聖人はこの働きを用い、それを長や官とする。だから細切れに割く事はしないのだ。 

 

  (太極拳を日々淡々と練れば、大いなる道と一体となる。) 

大いなる道とは、自然の法則・宇宙の真理に他なりません。

ですので、太極拳の練習をすることは、大いなる道、すなわち、自然の法則・宇宙の真理を体現する行為であるといえます。

 

29章 

将欲取天下而爲之、吾見其不得巳。天下神器、不可為也、不可執也。為者敗之、執者失之。凡物或行或随、或歔或吹、或強或羸、或培或キ。是以聖人去甚、去奢、去泰。 

 

天下を取ろうと望み動いても、私にはそれが成し得ないことだとわかる。天下は神器であり、何かしかけることはできず、つかむこともできない。しかけようとすれば敗れ、つかもうとすれば失う。 

ものごとは、進むものがあれば追うものもあり、穏やかなものがあれば激しいものもあり、強いものがあれば弱いものもあり、成長するものがあれば壊れるものがあるのだ。これをわきまえた聖人は偏ることなく、奢れることなく、傲慢にならない。

 

  (太極拳は自己完成を目指す武術) 

愛北太極拳クラブHPの目的に、自己実現をあげています。その自己実現の方法が太極拳であり、一つの手段でもあります。

 

30章 

以道佐人主者、不以兵強天下。其事好還。師之所処、荊棘生焉、大軍之後、必有凶年。善者果而已。不以取強。果而勿矜、果而勿伐、果而勿驕、果而不得已。果而勿強。物壮則老。是謂不道。不道早已。 

 

道をもって主を補佐するものは、武に頼って天下を取る事はしない。そのような事をすれば害が還ってくるものだ。軍の駐屯した所は、地が荒れ茨や棘のある植物が生え、大戦のあとは、必ずや凶作となるであろう。 

善者は勝利するだけで、追撃を強いることはしない。成果をあげて誇らず、成果をあげて鼻にかけず、成果をあげて驕れず、成果をあげてもそれは止むおえない事であったとする。成果をあげても強いないのだ。 

物事は強壮であるほど老衰する。これは道に従わないということだ。道に従わないのでは早々に滅することになるであろう。  

 

(太極拳家は道に従う)

道に従う とは、自然の法則に従うことであり、宇宙の真理を体現することでもあります。

 

31章 

夫兵者不祥之器、物或悪之、故有道者不処。君子居則貴左、用兵則貴右。兵者不祥之器、非君子之器。不得已而用之、恬淡為上。勝而不美。而美之者、是楽殺人。夫楽殺人者、則不可以得志於天下矣。吉事尚左、凶事尚右。偏将軍居左、上将軍居右、言以喪礼処之。殺人之衆、以哀悲泣之、戦勝、以喪礼処之。 

 

軍事というものは不吉な器であり、ひとはこれを嫌い、道をわきまえるものはこれを行わない。君子は普段左を貴ぶが、有事の際は右を貴ぶものだ。 

軍事というものは不吉な器であるから、君子はつかうべきではなかろう。止むおえず使うことがあっても、執着なくあっさり行うのが好ましい。勝っても美徳とはならない。これを美徳とするのは、人を殺めることを楽しみとしていることだ。人を殺めることを楽しみとしては、天下を得たいと望んだとしてとても成しえるものではない。 

吉事では左を上とし、凶事では右を上とする。副将軍は左に座し、大将は右に座するが、これはつまり喪の礼法を行っているのだ。多く人を殺めたときは、哀しみ悼みすすり泣き、勝利したとしても、喪の礼法を行う。 

 

(太極拳家は無為自然を目指す) 

無為自然とは、自然そのもののことです。逆らって生きてはいけません。自然のまま、自然のままが無為すなわち人口ではなく作為がない状態をいいます。

 

32章 

道常無名。樸雖小、天下莫能臣也。候王若能守之、万物将自賓。天地相合、以降甘露。民莫之令、而自均。始制有名。名亦既有、夫亦将知止。知止所以不殆。譬道之在天下、猶川谷之於江海。 

 

道は常に無名である。純朴は小さくとも、上手く臣として用いることはだれにも出来ない。諸侯がもし純朴を守ることができたなら、万物が自らの下に集まるであろう。天地は和合し甘露を降らし、民は命令せずに自ずからまとまる。 

始めて加工され名がつけられる。名がつけられたなら、止まることを知るべきだ。止まることをわきまえたなら危険はまぬがれよう。 

道が天下にある様子を例えるなら、大海が川谷の流れを集めているようなものであろう。

 

  (太極拳は自然との調和をめざす。いつでも止まり臨機応変に変化も出来る。) 

自然に逆らうことは、地球の破壊につながり、しいては人間破壊につながります。地球を破壊しないように個人個人が自然を大切にする心構えと、自然に対して臨機応変に対応できる柔軟さを身に着けることが大切です。

  

33章 

知人者知、自知者明。勝人者有力、自勝者強。知足者富。強行者有志。不失其所者久。死而不亡者寿。 

 

他人を知るのは知恵の働なり、自らを知るのは明智である。他人に勝つのは力があるからで、自らに勝つのは真の強さである。充足を知るのが真の豊かさである。努めて行い続けるのが真の志である。自らを見失わないことが長続きすることである。死して滅びないのが真の長寿である。 

 

(太極拳者は、大いなる道と常に一体) 

太極拳を学ぶことは、大いなる自然と一体となることです。

 

34章 

大道汎兮、其可左右。万物恃之而生而不辞。功成而不名有。衣養万物、而不為主。常無欲、可名於小。万物帰焉、而不為主、可名為大。是以聖人之能成其大也、以其終不自為大、故能成其大。 

 

大いなる道は溢れるように左右に行き渡る。万物はこれを頼みに生まれるがそれを言葉にしない。功を成してもそれを我が物とせず、万物をつつみ養っても、それらの主とならない。常に無欲なのは、小さい存在と呼べるが、万物がここに戻り帰っても、それらの主とならないのは、大いなる存在と言えよう。 

これをわきまえた聖人がその偉大さを成しているのは、自らを偉大としないからこそ、その偉大さを成すことができているのである。

 

  (太極拳の套路は、道を体現する) 

太極拳の套路自体が道の法則・自然の法則を体現できるようにできています。

 

35章 

執大象、天下往。往而不害、安平大。楽与餌、過客止。道之出言、淡乎其無味。視之不足見、聞之不足聞、用之不可既。 

 

大いなる形を把握するものの所に天下は集まる。集まりながら害なく、広く平穏で安定する。 

娯楽やご馳走をみせれば、通りすがりの者でさえ足をとめるが、道を言葉で表しても、淡白すぎて味がない。見ようとしても見えず、聞こうとしても聞けず、用いようとしてもうまく制御できないのだ。 

 

  (太極拳者は套路をひたすら練る。やがて道が体得できる) 

 

36章 

将欲歙之、必固張之。将欲弱之、必固強之。将欲廃之、必固興之。将欲奪之、必固与之。是謂微明。柔弱勝剛強。魚不可脱於淵。國之利器、不可以示人。 

 

もし縮めたいと思えば、拡大し尽くさせることだ。もし弱めたいと思えば、増強し尽くさせることだ。もし廃れさせたいと思えば、興隆し尽くさせることだ。もし奪いたいと思えば、与え続けることだ。このようなことを微明、微妙なる明智という。柔く弱いものが剛く強いものに勝つのだ。 

魚は淵をはなれないからこそ安全であるように、国も利器をむやみに人に示さないものなのだ。 

 

  (太極拳者、至柔は剛強に勝つを知る) 

至柔とは、地球の重力に逆らわずに、最小の力で立つこと、他に余分な力がかかることなく、常にリラックスした状態を心がけることです。

 

37章 

道常無為、而無不為。候王若能守之、万物将自化。化而欲作、吾将鎮之以無名之樸。無名之樸、夫亦将無欲。不欲以静、天下将自定。

 

道は常に無為、特別なことをせずにいて事を成す。諸侯がもしこの働きを守れたなら、万物は自ずから成長を遂げるであろう。成長しながらもなお余計なふるまいを望む者がいれば、わたしは無名なる純朴の働きをもってこれを鎮めようと思う。無名なる純朴の働きは、無欲な状態をもたらすであろう。欲なく静かであれば、天下は自ずから安定するであろう。 

 

   (太極拳者は無欲) 

欲は我が身を滅ぼす・・・とまで言われていますが、無欲でもやる気のない人生になってしまいます。ここでいう無欲とは、行き過ぎない欲のことであり、無為すなわち作為のない自然な状態のことをいいます。

 

 

 

(徳編) 

 

38章 

上徳不徳、是以有徳。下徳不失徳、是以無徳。上徳無為、而無以為。上仁為之、而無以為。上義為之、而有以為。上礼為之、而莫之応、則攘臂而扱之。故失道而後徳。失徳而後仁。失仁而後義。失義而後礼。夫礼者、忠信之薄、而乱之首。前識者、道之華、而愚之始。是以大丈夫、処其厚、不居其薄。処其実、不居其華。故去彼取此。 

 

上徳は徳を徳とせず、徳を備える。下徳は徳を意識して、徳を無くす。上徳は特別なことをせず、足跡を見せない。上仁は行いながらも、足跡は見せない。上義は行いながら、足跡を残す。上礼は行って、これに応じないとなると、腕をはらい引っ張り込む。とすれば、道を失い其の後に徳があり、徳を失いその後に仁があり、仁を失いその後に義があり、義を失いその後に礼があるのだ。 

礼とは、忠と信が薄れて生まれたものであり、乱れのはじまりである。他に先んじる智識とは、道の華であり、愚のはじまりである。ゆえに立派なものは、その厚みに身を置き、その薄みに居らず、その実に身を置き、その華に居ない。薄みと華を捨て、厚みや実を取るのだ。 

 

  (太極拳者は心身のエネルギーを内に収斂する。) 

華ー外 

実ー内 

道徳修養は、道、徳、仁、義、礼、智の順に別れています。太極拳修養も智から始まり道に至ることを目標としています。 

太極拳を舞っている者を見ると、ゆったりと舞う姿は華がある。が、しかし…実際に舞っている者の身体には内なるエネルギーに満ち満ちています。徳の源泉はここから沸き上がるのです。 華を咲かせるエネルギーは外へ向かい、実を得るには心身のエネルギーを内へ内へ向けるのです。太極拳は、そのことを蓄勁といいます。

 

39章 

昔之得一者、天得一以清、地得一以寧、神得一以霊、谷得一以盈、万物得一以生。侯王得一以為天下貞。其致之一也。天無以清、将恐裂。地無以寧、将恐発。神無以霊、将恐歇。谷無以盈、将恐竭。万物無以生、将恐滅。侯王無以貞、将恐蹶。故貴以賤為本、高以下爲基。是以侯王自謂孤寡不穀、此非以賤為本耶、非乎。故致数誉無誉。不欲テンテン如玉、珞珞如石。

 

昔から一を得るものは、天は一を得清らかで、地は一を得安寧で、神は一を得霊妙で、谷川は一を得満ち足りて、万物は一を得生み出している。諸侯は一を得それで天下の主となった。それぞれそのようにさせる存在が一である。 

天は清らかで無ければ、恐らく裂けるであろう。地は安寧でなければ、恐らく廃れるであろう。神は霊妙でなければ、恐らく絶えるであろう。谷川は満ち足りていなければ、恐らく涸れるであろう。万物は生み出さなければ、恐らく滅するであろう。諸侯は主でなければ、恐らく頓挫するであろう。 

このように貴いものは賤しいものを本にすえ、高きは低きを基にすえる。ゆえに、諸侯は自らを孤とし寡とし不穀とし、これは貴いものが賤しいものを本にすえているということではなかろうか、そうであろう。だから、数々の栄誉を求めるものは栄誉を無くす。宝玉も石ころも欲さないのだ。

 

  (太極拳者は全ての存在が関連している「全ては一つ」を知っている。) 

「一」 とは、「すべてが一つ」ということです。全ての存在が関連性をもって存在しています。それは、あらゆる存在が、おおいなる道という「一」に還元されるということでもあります。太極拳は、道というシステムを体得する武術でもあるのです。

 

40章 

上士聞道、勤而行之。中士聞道、若存若亡。下士聞道、大笑之。不笑不足以為道。故建言有之。明道若昧、進道若退、夷道若ライ。上徳若谷、広徳若不足、建徳若偸。質真若渝、大白若辱、大方無隅。大器晩成、大音希声、大象無形。道隱無名。夫唯道、善貸且善成。 

 

優れた士は道を聞くと、勤めてこれを行う。中の士は道を聞くと、あるかないか判らず。下の士は道を聞くと、大いにこれを笑う。下に笑われるくらいでなければ、これを道とするに足りない。 

この格言にこのようなものがある。「明確な道とは曖昧のようであり、真の前進は後退するかのようであり、真の道路は起伏があるようである。上徳は低い谷のようであり、広徳はムラがあるようであり、建徳はたるんでいるようであり、質朴と純真は変わりやすいかのようであり、純白は汚れているようであり、確固な形には角が無いかのようなのだ。大器晩成し、偉大な音は耳では捉えられず、偉大な象徴は形として見えない」 

道は隠れ名がない。その道こそが、よく力を与えてよく事を成すのだ。 

 

(太極拳者は柔の中に剛、硬の中に軟、動の中に静を知る。また、その反対もしかり) 

柔…剛

硬…軟

動…静

陰の中に○があり、陽の中に●があります。それが陰の中の陽であり、陽の中の陰です。よくクラブ員から緩めることは解っていても、体感としてなかなか掴むことが出来ません。どうしたら緩みの体感が理解できるでしょうか?と、質問を受けました。私はこう答えました。「緩めたければ、緊張をわざと作って下さい。氣功は、緊張と弛緩を繰り返します。そのキャパシティが広ければ広いほど体感は得やすくなります。太極拳も氣功なんです。

 

 

41章 

反者道之動。弱者道之用。天下万物生於有、有生於無。

 

返り進むが道の動き。軟弱こそが道の働き。天下万物は有として生ずるも、有は無として道から出ずる。

 

  (太極拳者は毎日一つの套路を続けると、心地よさ楽しさを知る。深くなるに連れ道の楽しさを味わう) 

太極拳で体験できる心地よさや楽しさは、個々人によっても違います。稽古の深まりによっても同じではありません。長い修行の中で、あるいは生きていく中で、いろいろなことを体験して、また太極拳も深いものとなります。こうした日常生活とひとつになった修行は、実に興味の尽きないものです。これが、おおいなる道と一つになる修行でもあります。

 

 

42章 

道生一、一生二、二生三、三生万物。万物負陰而抱陽、沖気以為和。人之所悪、唯孤寡不穀。而王公以為称。故物或損之而益、或益之而損。人之所教、我亦教之。強梁者不得其死。吾将以為教父。

 

道が一を生み、一が二を生み、二が三を生んで、三が万物を生み出す。万物は陰を担ぎ陽を抱き、沖の気の干渉によって調和を為す。人の憎むのは、孤や寡や不穀といったことだが、王や公はそれを自ら称す。だから物を損なうことで益を受けることがあり、益したことで損なうこともあるのだ。 

人の教訓は、私もまた教え伝えよう。「力でおし切ろうとする者は、真っ当な最後を遂げられない」私はこのことを教えの根本としたい。 

 

  (太極拳者は沖氣の意味を知り、大いなる道と一体となる) 

沖ー「螺旋の感覚」=変移の感覚…陰陽☯は渦、螺旋の動きで変移する。 

あらゆるものは変移する。止まることがない。般若心経はそれを「空」といった。人は空を悟ることで苦しみから解放される。 

 

43章 

天下之至柔、馳騁天下之至堅。無有入無間。吾是以知無為之有益。不言之教、無為之益、天下希及之。 

 

天下の最も柔らかなものが、天下の最も堅強なものを支配する。象無きものであってこそ、隙間も無いところまで入ることが出来る。私はこれにより、無為が有益であることを知った。不言の教えと無為の益は、天下にこれに及ぶものはほぼ存在しない。 

 

  (太極拳者は至静、至柔を極める) 

*人は緊張があると、持っている能力の多くを発揮できなくなる。これをなくそうというのが太極拳の鍛錬 

 

44章 

名与身孰親、身与貨孰多。得与亡孰病。是故甚愛必大費、多蔵必厚亡。知足不辱、知止不殆。可以長久。 

 

名誉と身体ではどちらが大切なものであろうか、身体と財産とではどちらが重い存在であろうか。得ることと失うことではどちらが害であろうか。 

大いに惜しめば必ず大いに費やすことになり、多くを貯蔵すれば必ず多大な損失を受けることになる。充足を知るものは屈辱を避けることができ、止まることを知るものは危険を避けることができる。いつまでも長らえる事ができるのだ。 

 

  (太極拳者、足りるを知る。止まるを知る。) 

名誉と健康、健康と金銭…どちらが大切か? 

太極拳は心と体の健康を保持して楽しく人生を送る手段です。 

 

45章 

大成若欠、其用不弊、大盈若沖、其用不窮。大直若屈、大巧若拙、大辯若訥。躁勝寒、静勝熱、清静為天下正。 

 

真の完成は欠損があるようであり、その働きは疲弊することがなく、真の充満は空であるようであり、その働きは困窮することがない。真直は屈折しているようであり、巧妙は稚拙であるかのようで、達弁は訥弁であるようである。動き回れば寒さに勝ち、静かにしていれば暑さに勝つ。清らかで静かなものが天下の主となるである。 

 

  (太極拳者「清静なるは、天下の正なり」を理解する) 

「清静」とは、この世界において、正しいことをいいます。人は清らかで、静かな状態であるのが良しとします。言い直せばリラックスした状態=清静です。

 

46章 

天下有道、却走馬以糞。天下無道、戎馬生於郊。罪莫大於可欲、禍莫大於不知足、咎莫大於欲得。故知足之足、常足矣。 

 

天下に道が行われているときは、伝令馬は退けられ耕作に用いられる。天下に道が行われていないときは、軍馬が郊外ちかくで活動する。欲をふくらませることが大いなる罪であり、充足を知らないことが大いなる禍いであり、むさぼり続けることが大いに痛ましい行いである。だから、足るを知る充足は、不変の充足なのだ。 

 

  (太極拳者、足りるを知る) 

 欲望は心を乱す。清浄、無為であれば自然と一つになれる。どれくらいの人が自らの足りるを知って、心安らかな生活を送ることができるのであろうか。大いなる道とは、大いなるシステムのことである。そのシステムはシンプルで、必要なもの以外を欲してはならず、余計なものや事をしてはならない。

 

47章 

不出戸知天下、不 キ ユウ見天道。其出弥遠、其知弥少。是以聖人、不行而知、不見而名、不為而成。 

 

外に出ずして天下を知り、外を見ずして天の法則を知る。その出具合が遠くなるほど、その知ることはますます少なくなっていく。ゆえに、聖人は出歩かずして知り、見ずして認識し、行わずに事を成す。 

 

  (太極拳者の神明の境地とは智慧の境地でもある) 

三種の神器の鏡は青銅で作られている。学生の頃、何故それが鏡なのかわからなかった。現代で見れば、それはただの青銅にしかすぎず、当時においては磨かれて、磨いて磨いて映し出される鏡になる。人も同じで、人間磨きとは、心の修行である。水泳の本を読むだけでは泳ぐことはできません。しっかり水の中に入ることが肝要です。太極拳も同じ、まずは飛び込んで動いてみることをお勧めします。

 

48章 

為学日益、為道日損。損之又損、以至於無為。無為而無不為。取天下、常以無事。及其有事、不足以取天下。 

 

学問を修めると日に日に増すが、道を修めると日に日に減る。減らした上にまた減らし、ついには無為の境地に行きつく。無為でありながら事を成す。天下を取るのは、常に事を行わない態度を以ってである。事を行うことになれば、天下を取るに足りない。 

 

  (太極拳者、学をなせば日に増し、道をなせば、日に損る) 

*道の修練は日々余計なものを捨てることにある。 

 

49章 

聖人無常心、以百姓心為心。善者吾善之、不善者吾亦善之。徳善。信者吾信之、不信者吾亦信之。徳信。聖人之在天下、歙歙焉、為天下渾渾。百姓皆注其耳目、聖人皆孩之。 

 

聖人は常に心無く、民の心を我が心とする。私は善を善とするが、不善もまた善とし、善を得る。私は信を信とするが、不信もまた信とし、信を得る。聖人が天下に在る時、ひかえて慎み、天下を治める時、ぼんやりとしたありさまでいる。民は皆耳と目をこらすが、聖人は全てを閉ざす。 

 

  (太極拳者は「善」なる世界、「信」に満ちた世界を知る。) 

おおいなる善と信。陰の中の陽、陽の中の陰。套路を行う前は無極の状態。無極には、善も不善もなく、信も不信もない。そのような状態を無極という。無極とは先天の世界である混沌をいいます。そして、太極「きっかけ」が生まれ陰と陽に分かれた世界を後天の世界である調和の世界です。そこには別々に分かれてはいますが、すべては繋がっている世界なのです。套路を始める前にこのことを知っておくべきです。

 

50章 

出生入死。生之徒十有三、死之徒十有三。人之生、動之死地、亦十有三。夫何故。以其生生之厚。蓋聞、善摂生者、陸行不遇ジ虎、入軍不被甲兵。ジ無所投其角、虎無所措其爪、兵無所容其刃。夫何故。以其無死地。 

 

生まれ出てやがて死に入る。生にあるものは十のうち三あるが、死に入るものも十のうち三である。生にある者が、死に移っていくのも、また十のうち三である。そもそも何ゆえか。それは生に生きることに執着するからである。 

聞き察するに、よく生を養う者は、陸を行くのに猛獣に出会うことが無く、軍に入ったときも兵装で身を固める事が無い。猛獣もその角を振るう場所無く、爪を振るう場所無く、兵も刃を撃つ所が無いのだ。そもそも何ゆえか。それは死の条件が無いからなのである。 

 

  (太極拳者は、生への執着も死への執着も共にも持たず、ただ大いなる道と一体となる) 

太極拳家は、真の養生を知って実践しています。しっかりと生きようと思うのなら、それは当然のことです。おおいなる道の世界は、生も死もありません。永遠なる道の世界は現象にしかすぎず、今、肉体を有した個であって全体に帰するときは肉体は持たず意識のみが有する現象へと変化するだけのこと。よりよく人生を歩むには、生への執着も死の恐れも意識することはない。

 

51章 

道生之、徳畜之、物形之、器成之。是以万物、莫不尊道而貴徳。道之尊、徳之貴、夫莫之命、而常自然。故道生之、徳畜之。長之育之、亭之毒之、養之覆之。生而不有、為而不恃、長而不宰。是謂玄徳。 

 

道が生み、徳が養い、物が形どり、器が完成させる。だから万物、道を尊び徳を貴ばないものはない。道を尊び、徳を貴ぶのは、だれかの命を受けたのではなく、常に自然なのである。 

だから道が生み、徳が養う。成長させ発育させ、完成させ熟させ、養護し保護する。生み出しても持たず、行っても頼らず、長となっても仕切らない。これを玄徳、不思議な能力という。 

 

  (太極拳者は玄徳を得る) 

玄徳とは無為なるもの。万物は玄徳によって動いています。自然も玄徳によって動いています。玄徳得られれば、心も体も正しく動くようになります。それは、陰陽の転換である太極を練習することで身に付きます。

 

52章 

天下有始、可以為天下母。既得其母、以知其子。既知其子、復守其母、沒身不殆。塞其兌、閉其門、終身不勤。開其兌、済其事、終身不救。見小曰明、守柔曰強。用其光、復歸其明、無遺身殃。是為襲常。 

 

天下には始源がある、それは天下の母と言えよう。その母体を認識できたなら、その子である万物も知ることが出来る。子がわかったなら、その母に返り守る、そうすれば生涯危機に遭うことはない。 

穴を閉ざし、門を閉ざせば、終身まで疲れない。穴を開き、事をなせば、終身まで救われない。小さなものを見ぬくことを明智といい、柔を守ることを真の強さという。その光を用い、明智にたちかえるなら、身のわざわいは消えるだろう。これを常に道に従うことという。 

 

(太極拳を練習するとは微細な感覚を得ること) 

套路は心身を整える重要なシステムです。必要なのは、心を整えるということであって、套路を習得することではありません。ですが、套路を捨てることではなくて、套路と自分自身が一体となることです。クラブに参加するときだけ套路を練習することではなくて、日常的に顔を洗うように、歯を磨くように、眠るように、套路練ることが自然と日常生活に落とし込むことが必要です。これが無為自然です。そして、微細な感覚を得ることにより、時の変化を感じ取ることができるようになります。太極拳がゆっくり動くとはそういう理由からです。

 

 

53章 

使我介然有知、行於大道、唯施是畏。大道甚夷、而民好径。朝甚除、田甚蕪、倉甚虚。服文綵、帯利剣、厭飲食、財貨有余。是謂盗夸。盗夸、非道也哉。

 

私に少しでも知恵があるなら、大道を行くに、わき道にそれることを恐れるだろう。大道は甚だ平坦であり、民は小道を歩きたがる。宮廷は甚だ清められるが、田畑は甚だ荒れはて、倉は甚だ空である。綺麗な服を着け、名剣を帯び、大いに飲み喰らい、余るほど財貨を保有する。これを盗人の奢りという。盗人の奢り、道にはずれたことである。 

 

(太極拳者は滞りを無くし無為自然を心掛ける) 

 老子は社会の不平等は人為によると説いています。本来、この世界は無為自然を良しとします。しかし、人間は欲望により有為の社会システムを構築してしまいました。ここに滞りが生まれます。この状態を不自然、不完全といいます。無為自然の世界には搾取する側、される側といった不平等は存在のしようがないのです。

 

54章 

善建者不抜、善抱者不脱。子孫以祭祀不輟。修之於身、其徳乃真。修之於家、其徳乃余。修之於郷、其徳乃長。修之於邦、其徳乃豊。修之於天下、其徳乃普。故以身観身、以家観家、以郷観郷、以邦観邦、以天下観天下。吾何以知天下然哉。以此。 

 

よく建てられたものはひき抜けず、よく抱えたものは脱しない。子孫は続き祭祀も絶えない。身に修めるなら、徳は確かなものとなり、家に修めるなら、徳は増え、郷に修めるなら、徳は長く続き、国に修めるなら、徳は豊かになり、天下に修めるなら、徳は広く行き渡る。 

身の修め方で人を観察し、家の修め方で家を観察し、郷の修め方で郷を観察し、国の修め方で国を観察し、天下の修め方で天下を観察する。私が何によって天下を知るかといえば、これを以ってである。 

 

  (太極拳者は自分が正しくあることで、周りが正しくなることを知っている) 

 個人が徳を養えば、家にも徳が満たされ、ひいては地域、国にも徳が満ちることになる。

 

55章 

含徳之厚、比於赤子。蜂タイ爬蛇不螫、猛獣不拠、攫鳥不搏。骨弱筋柔而握固。未知牝牡之合而全作、精之至也。終日号而不嗄、和之至也。知和曰常、知常曰明。益生曰祥、心使氣曰強。物壮則老、謂之不道。不道早已。 

 

深く徳を含むものは、赤子のようである。赤子には蜂や蠍や蛇類も刺さず、猛獣も襲わず、猛禽も掛からない。骨は弱く筋も柔らかいが、握りこぶしは固い。雌雄の交合を知らずに赤子の陽物が勃つのは、精が最高だからである。終日号泣して赤子が声枯れしないのは、調和が最高だからである。 

調和を知ることを常の道といい、常の道を知ることを明智という。命を増そうとするのは不吉で、心で気を煽るのは強いるという。物は壮んであるほど老いるが、これは道に従わないことである。道に従わなければ早くに亡ぶ。 

 

  (太極拳者は調和を大切にする) 

調和=和合・・・太極拳の陰陽転換の法則を学ぶことにより、天地の和合システムを知ることができます。そのことを「天機」といいます。天機が訪れるとか、天機を待たずして・・・という天機です。その天機をしることは重要です。なぜなら生成の兆しだからです。陰陽の変化によって天機に気づき、大いなる道に即した生き方になる。その力を利用することに重点を置きます。

 

56章 

知者不言、言者不知。塞其兌、閉其門、挫其鋭、解其粉、和其光、同其塵。是謂玄同。故不可得而親、不可得而疎。不可得而利、不可得而害。不可得而貴、不可得而賤。故為天下貴。 

 

知者は不言であり、言者は不知である。その感覚を塞ぎ、その門を塞ぎ、その鋭さを挫き、その光を和らげ、塵と同じくする。これを玄同、不思議な同一という。 

このような者には親しむことが出来ず、疎遠にすることも出来ない。利を得ることも出来ず、害を与えることも出来ない。貴ぶことも出来ず、卑しくすることも出来ない。だからこそ天下で貴いものなのだ。 

 

  (太極拳者は和光同塵を心掛ける)

 日本でも有名な言葉ですね。「和光同塵」・・・自分の卓越した知識を隠して俗世間と交際すること。太極拳的解釈は、前の「道」第四章にも書きましたが、も一度おさらいしましょう。

和光同塵…光を和らげて塵に同じ…言い換えれば、光の様に自分を見せることなく塵の様に一定の形式を持たない。それが大いなる道の働きです。また、相手の攻撃(光)の威力を和らげて(和)無力(塵)にする(同)と、解釈します。これが太極拳の化勁(かけい)です。 なかなか難しいですが、一つのエネルギーを外にだすのではなく、内に秘めて使いこなすことを意味しています。

 

57章 

以正治国、以奇用兵、以無事取天下。吾何以知其然哉。以此。天下多忌諱、而民弥貧。民多利器、国家滋昏。民多智慧、邪事滋起。法令滋彰、盜賊多有。故聖人云、我無為而民自化、我好静而民自正、我無事而民自富、我無欲而民自樸。 

 

国を治めるに正をもって、兵を用いるに奇をもって行うが、天下を取るには事を行わないことである。私が何をもってそのことを知るかといえば次のような事からである。天下に禁則が増えると、民は自由を失い貧しくなる。民が利器を多く用いると、国家はよく混乱する。民が知恵をつけると、悪事が盛んに起こる。法令を詳細に立てると、盗賊が多く現れる。 

ゆえに聖人は言う「私は何も特別な事をせずに民は自ずから変化し、私は静かにじっとしていながら民は自ずから正しくなり、私が事を行わずに民は自ずから富み、私が欲を無くして民は自ずから純朴になって行く」 

 

  (太極拳者は無為、無事、余計な事をしない) 

 無為=無事・・・余計なことをしない。

 

58章 

其政悶悶、其民淳淳。其政察察、其民欠欠。禍兮福之所倚、福兮禍之所伏。孰知其極。其無正邪。正復為奇、善復為妖。人之迷、其日固久。是以聖人、方而不割、廉而不傷、直而不肆、光而不燿。 

 

政治がぼんやりしていると、その民は純朴である。政治が行き届いていると、その民は小賢しいものである。災いある所に福が潜み、福ある所に災いが隠れている。この関係の巡りの極みは誰にもわからない。そこには規準が無いのだろうか。正が返り奇となり、善が返り妖となる。人が迷うのは、昔から続くことなのだ。 

聖人はこれをわきまえ、方正でも判断せず、廉潔でも傷つけず、真直でも押し通さず、光っていても輝きを見せないのだ。 

 

  (太極拳者は、陰の中に陽があり、陽の中に陰があることを知る) 

☯左の陰陽図の白(陽)の●が陽の中の陰で、黒(陰)の中の○が陰の中の陽です。陰が極まれば陽に転化していきますが、陰の中に陽、陽の中に陰があることを忘れてはいけません。なぜなら、この世は相対界の世界です。大きいから小さいがわかり、長いから短いがわかります。陰陽とは相対界のことに他なりません。仏教でいう諸行無常の世界と同じです。

 

59章 

治人事天、莫若嗇。夫唯嗇、是以早服。早服、謂之重積徳。重積徳、則無不克。無不克、則莫知其極。莫知其極、可以有国。有国之母、可以長久。是謂深根固柢、長生久視之道。 

 

人を治め天を行うには、節約を心掛けることである。節約しているからこそ、早々に従う事が出来る。早く従えば、徳を重く積み重ねることと言える。徳を重く積めば、勝てないことは無くなる。勝てないことが無くなれば、限界が無くなる。限界が無くなれば、国は保たれる。国を保つ母体により、長久を得ることだろう。これを固く深く根を張り、長久に生存する道というのだ。 

 

(太極拳を練れば、沈墜勁を得て安定感が増す) 

逆腹式呼吸で足の裏に体重を落とすことは、地球の重力を利用していることに他なりません。地に根が生えたように立つ立禅でその感覚をつかみます。安定感とはどっしりと根を生やした大木のような安心感から生まれます。沈墜勁からの反発(リバウンド)が発勁です。

 

60章 

治大国、若烹小鮮。以道莅天下、其鬼不神。非其鬼不神、其神不傷人。非其神不傷人、聖人亦不傷人。夫両不相傷。故徳交帰焉。 

 

大国を治めるのは、小魚を料理するようなものだ。道に従い天下を治めれば、鬼も祟る事は無い。鬼の祟りが無くなるだけでなく、その祟りが人を傷つけることも無くなる。鬼の祟りが人を傷つけることが無くなるだけでなく、聖人もまた人を傷つけることが無くなる。そもそも両者が傷つけることがないのだから、徳がまた巡り帰ってくるのである。 

 

  (太極拳者は調和の大切さを知る) 

大いなる道とは調和(和合)の道でもある。

  

61章 

大国者下流。天下之交、天下之牝。牝常以静勝牡、以静為下。故大国以下小国、則取小国、小国以下大国、則取大国。故或下以取、或下而取。大国不過欲兼畜人、小国不過欲入事人。夫両者、各得其所欲、大者宜爲下。 

 

大国は下流である。天下が交じるところであり、天下の雌である。雌は常に静かで雄に勝つが、静かにしていることによって謙るのである。大国が小国に謙ると、小国を取ることになり、小国が大国に謙ると、大国を取ることになる。だからあるものは謙って小国を取り、あるものは謙って大国を取る。 

大国は他国を養うことを望むだけであり、小国は他国に従うことを望むだけである。とすれば両者、それぞれの望みを叶えるに、大いなる存在が下流となる方が難事である。 

 

  (太極拳の静の間合いとは争わない間合いのことである) 

 推手で大切なことは、同時に動くということである。それが静の間合いであり争わない間合いである。決して早く動いたり後で動いたりはしない。

 

62章 

道者万物之奥。善人之宝。不善人之所保。美言可以市尊、行可以加人。人之不善、何棄之有。故立天子、置三公、雖有拱璧以先駟馬、不如坐進此道。古之所以貴此道者何。不曰以求得、有罪以免邪。故為天下貴。 

 

道は万物の根源である。善人の宝である。不善人を保つ存在である。美言にも高い位を手に入れさせ、美行にも人をのし上がらせるのだから、不善の人といえど、それをなぜ見捨てることができようか。 

だから天子を立て、三公を置くとき、両手で抱えるほど大きな壁を、駟馬の車の先頭に置くことがあるが、それは座っていながら道を進言するに及ばない。昔よりこの道を貴ぶのは何故か。求めれば得られ、罪あれど免れられる、と言われるとおりではなかろうか。だから天下で貴いものなのだ。 

 

  (太極拳者は静の気質を身につける) 

 静なる気質=善なる気質。太極拳を練れば練るほどそれは近づく。よくクラブ員に質問します。どうですか?太極拳をやりはじめて何か変わったことはありますか?すると、かえってくる言葉は、みんな一様にケンカしなくなった。とか、言い争わなくなった。とか、なんか優しくなったような気がします。と、返答が返ってきます。これが、静なる気質であり、善なる気質でもあるのです。

 

63章 

為無為、事無事、味無味。大小多少、報怨以徳。図難於其易、為大於其細。天下難事、必作於易、天下大事、必作於細。是以聖人、終不爲大、故能成其大。夫軽諾必寡信、多易必多難。是以聖人猶難之、故終無難矣。

 

無為を行い、無事を働き、無味を味わう。小を大と考え少を多と捉え、怨みには徳で報いる。難事に於いては易しいうちによく図り、大事に於いては小さいうちに行う。天下の難事も、必ず易しいところから始まり、天下の大事も、必ず小さいところから始まる。聖人は大きな事を行わずにいてこそ、大きな事を成し遂げられるのである。 

そもそも、軽く許諾するのでは信に乏しくなり、多く行えば難事が増えるのだ。聖人であっても難しいとするからこそ、難しいことは無くなるのである。 

 

  (太極拳者は無為自然を味わう) 

大いなる道と一つになる方法は、無為自然であり続けることです。太極拳の真伝は無為を行い無事を確かなものとし、無味を味わいます。日々套路を練ることが肝要です。

 

64章 

其安易持、其未兆易謀。其脆易ハン、其微易散。為之於未有、治之於未乱。合抱之木、生於毫末、九層之台、起於累土、千里之行、始於足下。爲者敗之、執者失之。是以聖人、無為故無敗、無執故無失。民之従事、常於幾成而敗之。慎終如始、則無敗事。是以聖人、欲不欲、不貴難得之貨。学不学、復衆人之所過。以輔万物之自然、而不敢為。 

 

安定のうちは維持し易く、未だ兆しの無いうちは謀り易い。脆いうちは溶かし易く、微かなうちは散らせ易い。まだ事なきうちに行い、乱れなきうちに治める。両手で抱くほどの木も、微小な存在から始まり、九層の台も、些細な土の積み重ねから始まり、千里の行も、一歩から始まる。為す者はこれをやぶり、行う者はこれを失うことになる。聖人はこれをわきまえ、無為でいてやぶらず、無執でいて失わないのである。 

民は事に従うとき、常に完成の手前でこれをやぶる。初心の如く終始慎めば、事をやぶることは無い。聖人は不欲を欲し、得難き品を貴重としない。不学を学び、大衆の過ぎたる所をもどす。このように万物の自然を助け、敢えて為さないのである。

 

  (太極拳者は未病を治す) 

未病=大病になる前の症状。大病になってからでは遅すぎます。対症療法である現代医学から、予防医学への取り組みは今に始まったことではないのですが、未だに市中の病院は患者でいっぱいです。今の医療体制に問題があります。自分の身体は自分が守らなければなりません。だから、みなさんは太極拳を習うのでしょう。

 

65章 

古之善為道者、非以明民、将以愚之。民之難治、以其智多。故以智治国、国之賊。不以智治国、国之福。知此両者、亦稽式。常知稽式、是謂玄徳。玄徳深矣、遠矣。与物反矣。然後乃至大順。 

 

いにしえの善く道を行う者は、それで民を明るくしたのではなく、それで愚かにしたのである。民が治め難いのは、智が多いからである。だから、智を以って国を治めるのは、国を害することである。智で国を治めないことが、国の幸いである。この両者を理解することは、法則の理解である。常に法則をわきまえること、これを玄徳、不思議な能力という。玄徳は深く、果てしない。万物と共に返りくる。そして然る後偉大なる順応へと行きつくのだ。 

 

  (太極拳者は人為を捨て大いなる道に従う) 

人為は見破られ誤解を招きます。人為を捨てるとは、自然な行いに身を任せることで、行動の裏に潜む作為はありません。それが、道に従うということです。

 

66章 

江海所以能為百谷王者、以其善下之、故能為百谷王。是以欲上民、必以言下之、欲先民、必以身後之。是以聖人、処上而民不重、処前而民不害。是以天下楽推而不厭。以其不争、故天下莫能与之争。 

 

湖や海、江海が百谷の王と言われる所以は、それがよく低いところにあって、それで百谷の王となっているのである。民の上に立つことを欲すなら、必ず言葉を慎み、民の先頭に立ちたいと欲すなら、必ず身を後ろに置くことだ。 

聖人は、上に立っても民は重みを感じず、前に立っても民は害を感じない。だから天下が喜んで推すことを厭わないのだ。争うことがないのだから、天下でこれと争えるものが存在しないのである。 

 

  (太極拳者は外に向かう意識を内に向ける) 

外に向かいエネルギーを内なるエネルギーに変えると、言い換えることもできます。氣を活性化して無駄な労力を使わずに蓄勁として蓄えることが無駄なエネルギーを浪費しないことにつながります。長生きの秘訣はココにあるのかもしれません。

 

67章 

天下皆謂我道大似不肖。夫唯大、故似不肖。若肖、久矣其細也夫。我有三宝、持而保之。一曰慈、二曰倹、三曰不敢為天下先。慈故能勇、倹故能広、不敢為天下先、故能成器長。今舎慈且勇、舎倹且広、舎後且先、死矣。夫慈、以戦則勝、以守則固。天将救之、以慈衞之。 

 

天下皆、私のことを愚かなようだと言う。そもそも大きいからこそ、愚かに見えるのだ。もし愚かならば、すでに小さな人物となっていただろう。私には三つの宝があり、それを保持している。一に慈しみ、二に慎ましさ、三に敢えて天下に先んじない行いである。 

慈しみを持っているからこそ勇ましく、慎ましさを持っているからからこそ広く、天下に先んじないからこそ指揮者となれる。いま慈しまずに勇ましくなろうとし、慎まずに広がろうとし、後ろに居ずして先んずるならば、死ぬ。 

そもそも慈しみがあれば戦いに勝ち、それにより守れば固い。天を救わんとして、慈しみによって守られるのである。 

 

(太極拳者は三宝を実践する) 

三宝…慈悲、倹約、慎み 。3という数字は一番バランスのとれた数字です。新道、仏教しかりキリスト教しかりです。

 

68章 

善為士者不武。善戦者不怒。善勝敵者不与。善用人者為之下。是謂不争之徳、是謂用人之力、是謂配天。古之極。 

 

善の士は武ならず。善く戦う者は怒らず。善く敵に勝つ者は争わず。善く人を用いる者は下る。これを不争の徳といい、これを用人の力といい、これは配天ともいわれる。古の法則である。 

 

  (太極拳者は戦わずして勝つ) 

ブルース・リーの映画の中に、確かドラゴンへの道だったと思いますが、船の中は狭いので、あの小島で試合をしようと、ブルース・リーは誘います。小舟に乗った相手は船から離されて小舟の中でみじめな姿をさらします。これが戦わずして勝ことだな。と、当時は思ったものです。太極拳は平和の拳です。争わないことを最上とします。それが「至静」です。

 

69章 

用兵有言、吾不敢為主而為客、不敢進寸而退尺。是謂行無行、攘無臂、執無兵、引無敵。禍莫大於軽敵。軽敵幾喪吾宝。故抗兵相如、哀者勝矣。 

 

用兵についての言葉がある「こちらは敢えて主とならずに客(迎戦)となり、敢えて少しも進まずに大きく退くべし」これは行うに行う所無く、袖をまくるに腕無く、執るに兵無く、引くに敵が無い状態である。 

禍は敵を軽んずることが大である。敵を軽んじれば私の宝をほとんど失う。だから敵と対して互角ならば、哀しむものが勝つのだ。

 

  (太極拳者は相手のバランスを崩し、すぐに反撃に転ずる) 

粘…化 。推手で実践練習します。套路の身体感覚を忘れて推手をするクラブ員が散見されます。すべての動作は套路抜きにして推手へ移行することはできません。推手も大切ですが、套路も大切です。

 

70章 

吾言甚易知、甚易行。天下莫能知、莫能行。言有宗、事有君。夫唯無知、是以不我知。知我者希、則我貴矣。是以聖人被褐懐玉。 

 

私の言は甚だわかり易く、甚だ行い易い。しかし天下に理解できるもの無く、行えるものが無い。言には本源があり、事物には要点がある。これを理解しないから、私を知ることが出来ないのだ。私を知るものが稀なのは、つまり私が貴い存在なのだ。聖人は粗末な服をまといつつ、珠を抱いているのである。 

 

  (太極拳者は化勁から発勁を得る) 

推手から学びます。相手の力を利用し、それにプラスして地球の重力をも利用します。そのために呼吸法は大切です。

 

71章 

知不知上。不知知病。聖人不病、以其病病、是以不病。 

 

知っていながら知らないとするのは上である。知らないながら知るとするのは短所である。聖人に短所がないのは、その短所を短所として認識するからであり、だからこそ短所がないのである。 

 

  (太極拳者はごく自然であれ) 

何度も何度も繰り返し出てくる言葉ですね。「無為自然」を最上とします。逆らうことなく、自然に任せることです。

 

72章 

民不畏威、則大威至。無狎其所居、無厭其所生。夫唯不厭、是以不厭。是以聖人、自知不自見、自愛不自貴。故去彼取此。 

 

民が威を恐れないようになると、大いなる圧力がかかる。しかしその居の存在を狭めること無く、その生の存在を圧しないことだ。そもそも圧迫しないからこそ、圧迫もされないのだ。これにより聖人は、自らを知りつつ自らを明らかにせず、自らを愛しながら自ら貴としない。だから表す事を棄てこれを取るのだ。

 

(太極拳者は内的感覚と客観的事実のみ見る) 

内観は内なる自分を観察する方法です。太極拳は絶えず今の自分の状態を客観的事実のみ確認していきます。早く動いては確認できません。太極拳がゆっくり動く理由はココにあります。

 

73章 

勇於敢則殺、勇於不敢則活。此両者、或利或害。天之所悪、孰知其故。天之道、不争而善勝、不言而善応、不召而自来、セン然而善謀。天網恢恢、疏而不失。 

 

勇敢であれば殺され、勇敢でなければ活きる。この両者、利があるか害があるかで決められる。天に目をつけられたとなると、その理由は誰にも判らなくなる。天の道は、争わずに善く勝ち、言わずして善く応え、招かずして自ずから来させ、ゆったりしながら善く謀る。天網は細かく広く、目こぼしはない。 

 

  (太極拳は争わずして勝ちに行く) 

68章に同じ。このことを神明の境地といいます。

 

74章 

民不畏死、奈何以死懼之。若使民常畏死、而為奇者、吾得執而殺之。孰敢。常有司殺者殺。夫代司殺者殺、是謂代大匠削。夫代大匠削者、希有不傷其手矣。 

 

民が死を恐れなければ、死による脅しができようか。もし民が常に死を恐れるならば、秩序を乱す者があって、私はそれを捕捉し殺すことができる。しかし敢えてできようか。常に刑を司る者が殺すのである。そもそも刑を司る者に代わり殺すのは、大工に代わって削ることである。そもそも大工に代わって削る者は、手を傷つけずに行うことはまずできないであろう。 

 

  (太極拳は内丹を練る) 

不老不死を追求する仙道では内丹功という小周天や大周天法の修行があります。太極拳は内なるエネルギーの蓄功は内丹を得ることに他なりません。

 

75章 

民之饑、以其上食税之多、是以饑。民之難治、以其上之有為、是以難治。民之軽死、以其上求生之厚、是以軽死。夫唯無以生為者、是賢於貴生。 

 

民が飢えるのは、上が税を多く搾取するからであり、これにより飢える。民が治め難くなるのは、上が干渉するからであり、これにより治め難い。民が死を厭わないのは、上が生を求めることに熱心だからであり、これにより死を厭わない。そもそも生に執着しない者こそ、生を貴ぶものよりまさるのだ。 

 

  (太極拳は心身(陰陽)の平均状態を得る) 

 

76章 

人之生也柔弱、其死也堅強。万物草木之生也柔脆、其死也枯槁。故堅強者死之徒、柔弱者生之徒。是以兵強則不勝、木強則折。強大処下、柔弱処上。 

人の生まれたときは柔く弱いが、死ぬときは堅く強いてしまう。万物は草木のように柔く脆いが、その死の時は枯れる。だから堅強の者は死の徒であり、柔弱の者は生の徒である。これにより強兵は勝たず、堅い木は折れる。強大なものは下位にあり、柔弱なものは上位にある。 

 

(太極拳は柔弱を目指し微細な感覚を獲得する) 

微細な感覚を得るには柔弱なる動きをもって確認することです。力が入った感覚では微細な感覚を得ることはできません。太極拳で確認できます。

 

77章 

天之道、其猶張弓与。高者抑之、下者挙之、有余者損之、不足者補之。天之道、損有余而補不足。人之道則不然。損不足以奉有余。孰能有余以奉天下。唯有道者。是以聖人、為而不恃、功成而不処。其不欲見賢。 

 

天の道は、弓を張る様に似ている。上部を抑え、下部を引上げて、余りがあれば減らし、不足があれば補う。 

天の道は、余りがあれば減らし不足ならば補う。しかし人の道はそうではない。不足なものを減らし余りあるところに献上する。余っていながら天下に献上できるものはいるだろうか。それは道をわきまえる者のみだ。これにより聖人は、成しても頼らず、功があっても居座らない。それは賢をあらわす事を欲しないからである。

 

  (太極拳は平均感覚を磨き中庸を良しとする) 

 「天の道は、余りあるを損じて、足らざるを補う」老子は、大いなる道である天の道は、余っている部分があればこれを削り、足らない部分があればそれを補って平均状態を保てといいます。これが中庸ということです。

 

 

78章 

天下莫柔弱於水。而攻堅強者、莫之能勝。以其無以易之。弱之勝強、柔之勝剛、天下莫不知、莫能行。是以聖人云、受国之垢、是謂社稷主、受国不祥、是為天下王。正言若反。 

 

天下に水より柔弱なものはない。またそれでいて堅強に攻めることができ、これに勝るものはない。それをかえる存在が無いからである。弱いものが強いものに勝ち、柔は強に勝るのは、天下だれもが知らぬものはないが、行うものもない。聖人はいう「国の垢を受けるもの、これを社稷の主といい、国の災いを受けるもの、これを天下の王という」正言は反するが如しである。 

 

   (太極拳は水如し動き柔よく剛を制す) 

「柔よく剛を制す」は、我が国の柔道でよく使われる言葉で誰もが知っていると思います。その言葉は老子の道徳経が出典であることは知られていません。また、我が国に伝わる仏教も老子の語り言葉でサンスクリットの経典を中国語に訳されたことも知る人はあまり居ません。老子は、俺が俺がと出しゃばることなく、虚であれ弱であれ、安らかな気持ちで暮せと、上善は水の如し、低き低き所へ身を置くことが善なる道だと語りかけるのです。

 

79章 

和大怨、必有余怨。安可以為善。是以聖人執左契、而不責於人。有徳司契、無徳司徹。天道無親、常与善人。 

 

大いなる怨みを和らげると、必ず怨みは残る。なぜにそれを善しといえようか。聖人は左契をとり、人を責める事はしない。有徳は契を司る者で、無徳は徹を司る者。天道には情けは無く、常に善の味方である。 

 

(太極拳は善を実践し道と一体となる) 

太極拳は、大いなる道と一体となること(無為自然)であることを善としています。善を実践する思いや行為は、その人の運命までも良い方向へ転じていきます。

 

80章 

小国寡民。使有什伯之器而不用、使民重死而不遠徒、雖有舟輿、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之。使民復結繩而用之、甘其食、美其服、安其居、楽其俗、鄰国相望、鶏犬之聲相聞、民至老死、不相往来。 

 

小規模国家の民。什伯の器(文明の利器)はあっても使わせないようし、民が死を重く感じ遠方に移ることがないようになれば、舟や車があっても乗ることが無く、甲冑武器があってもそれを見せる場も無くなるだろう。 

民が復古し、縄を結い文字とし、食を美味いとし、服を美しいとし、住居で安んじ、暮らしを楽しめば、隣国を向こうに見て、鶏や犬の鳴き声が聞こえてきながら、民は老衰に至るまで、互いに往来することはないであろう。 

 

  (太極拳は霊的向上を目指す) 

  物的なものが急速に進歩する時代にあっては、どうしても霊的なものが見失われてしまいがちです。このアンバランスが、欲望を肥大化させることになります。物的なものは、「生」の充足の糧ではありますが、それだけでは人間は、真の意味での満足、安心は得られません。霊的なものは、物的なものと同様に生きるための糧でもあります。そのバランスの取れた最適な道の世界を太極拳で体現していきます。

 

81章 

信言不美、美言不信。善者不弁、弁者不善。知者不博、博者不知。聖人不積。既以為人、己愈有。既以与人、己愈多。天之道、利而不害。聖人之道、為而不争。 

 

信言は不美で、美言は不信である。善者は不弁で、弁者が不善である。知者は不博で、博者は不知である。聖人は積まない。ことごとく人の為にし、己はますます有する。ことごとく人に与えながら、己はますます多くする。天の道は、利して害せず。聖人の道は、為して争わず。 

 

(太極拳の道は害せず争わず)

 

  天の道は、霊的な道であり、それは相手に利益を与えるだけで、害を与えることはない。一方、それが物的にあらわれたのが聖人の道です。ここでもいろいろな行為はなされるものの、けっして争うことはありません。害せず争わずが、大いなる道の霊的、物的なあらわれなのです。太極拳の持つ世界は、初めは武術として人が生き残る技、危険を回避するすべでしたが、太平な世の中になると、害せず争わずといった道の方が生きていく上で最も必要なことと考えを改めたというより、進化させたと言ってよいのではないでしょうか。

 

 

《易経と量子力学 概略》

 

  太極拳は古代中国の叡智を含有し、また現代最先端の科学をも凌駕しうる人類史上最高の遺産です。その易経と量子力学の概略なる知識を知的財産として身につけましょう。クラブでは順次重要なポイントをお話ししながら太極拳との関連やそのバックボーンとなる考え方を先にあげました老子「道徳経」とを合わせて説明していきます。

『易経』は、古代中国の書物で、著者は伏羲(ふぎ)、孔子が監修し完成させたともいわれています。 

商の時代から蓄積された卜辞を集大成したものとして易経は成立しました。 

『卜』が動物である亀の甲羅や牛や鹿の肩甲骨に入ったヒビの形から占うものであるのに対して、易は植物である蓍の茎の本数を用いた占いです。 

現代では、哲学書としての易経と占術のテキストとしての易経が、一部重なりながらも別々のものとなっています。 

中心思想は、陰陽二つの元素の対立と統合により、森羅万象の変化法則を説いています。 

易経は儒家である荀子の学派によって儒家の経典として取り込まれました。 

  

儒教の基本書籍である五経の筆頭に挙げられる経典であり、『周易』または単に『易』とも呼びます。 

『易経』というのは宋以降の名称で、儒教の経書に挙げられたためにこう呼ばれています。 

なぜ『易』という名なのか、古来から様々な説が唱えられてきました。 

「易」という語がもっぱら「変化」を意味し、また占いというもの自体が過去・現在・未来へと変化流転していくのを捉えようとすることで、何らかの点で “変化” と考える人が多いからなのです。 

有名なものに「易」という字が蜥蜴(とかげ)に由来するという “蜥蜴説” があり、蜥蜴が肌の色を変化させることに由来します。 

また、「易」の字が「日」と「月」から構成されるとする “日月説” があり、太陽と太陰(月)で「陰陽」とする説もあり、太陽や月、星の運行から運命を読みとる占星術に由来すると考える人もいます。 

伝統的な儒教の考えでは、「易は一名にして三義を含む」という「変易」「不易」「簡易」(かわる、かわらぬ、たやすい)の “三易説” を採っています。 

 

《易経(まとめ)》 

易…日と月=陰陽の意味 

経…縦糸(昔、竹簡に彫られたものを糸で繋いだ意味) 

※経は道とか理のことで、天の理や人の道を解明した書物を経と云う。つまり、経は神聖で権威のある書物と言えます。 

  

一を陽、ニを陰、8卦=64爻(こう) 

自然の摂理を解く 

陽…永遠に続く道 

陰…陽と陽の間に隔たりがある爻 

12345=生数から成数=6789 

  

簡易…陰に偏る、陽に偏ると病気になる 

変易…宇宙の万物は常に変化 

付易…自然には一定の法則がある 

陰陽を繰り返すことにより、無限の変化を繰り返す。これを道と云う。 

6つの爻で吉凶を占う84通り 

陽の中に陰あり、陰の中に陽あり=太極 

易が始まる…太極が両義(陰陽)を生じ、両義が四象(太陰・少陰・太陽・少陽)を生じ、四象が八卦(乾けん・兌だ・離り・震しん・巽そん・坎かん・艮ごん・坤こん)を生ず 

 

易経は非常に奥が深く、それこそ一年間勉強しても足りません。一応、こんなものだということは頭の片隅に記憶しておいてください。特に、まとめの部分は分かりにくいと思いますが、順次クラブで説明していきます。太極拳に付随する知識として身に着けておくと太極拳のレベルが一段と向上します。 

 

《量子力学 》

   

微小世界で、光や電子などが「粒子」としての顔と「波」としての顔を併せもつことを理論づけた物理学。 

1920年代半ばに築かれ、物理状態を明快に予測できる古典力学とは異なる世界像をもたらした。 

粒子の状態は重ね合わさり、その様子が波として表される。ところが、粒子を観測すると重なりが消え、粒の状態が見える。核心に、粒子の位置と運動量、時刻とエネルギーなど対になる数値の両方をいっぺんに正確に知りえないとするW.ハイゼンベルクの不確定性原理がある。A.アインシュタインの相対論と並んで20世紀物理学を代表する理論。近年、実験技術の進歩で、その世界像は現実味を増す。実用面でも半導体物理を生み、情報技術(IT)の礎となりました。 

素粒子・原子・分子などの微小的な世界の物理現象を扱う理論体系。 

物質のもつ波動性と粒子性、観測による測定値の不確定性などを基本とする。 

 

このレベルの世界では粒子と波動の二重性が顕著であり,たとえば水素原子において原子核である陽子のまわりを回る電子は,エネルギーの確定した運動をするとき,一定の軌道を刻々に速度を変えながらたどっていくのではなく、粒子としての描像に代えてこの場合の電子は原子核のまわりに広がって振動する波動として表現されます。 

二重スリット実験…光は波(干渉し合う) 

上の実験で光は波の性質が確認されました。 

が、しかしスリット板とスクリーンの間にカメラを備えて観察しようとすると、同じ結果にならない。 

光の不思議な性質…粒子の性質をもつことが解りました。 

また、観察者の意向が反映されてしまうことも確認された。(想いが現実化する) 

*遠隔療法はこの原理 

アインシュタインは、光は波の性質をもち、又粒の性質も合わせ持つことを発見した。=電磁波 

物質の構成要素(電子、クオーク)=粒子であり波の性質わ合わせ持つことが判明。 

 

《その他メモ》 

エネルギーが高い=周波数は高い 

青い…周波数高い…エネルギー大 

早く振動する 

波…振動=周波数 

(例)携帯電話…電子を揺すると電波が出る(波)=電磁波 

物質…素粒子…反素粒子…対で出来る 

世界はどのように出来ているか? 

(物質の構成要素)…量子力学の世界 

光は波…粒の性質を合わせ持つ 

電子は粒…波の性質も合わせ持つ 

宇宙の始まりは何もなかったが、何かが起こった。エネルギーが生まれた。 

クオークと反クオーク 

レプトンと反レプトン 

  

地球の自転…S極、N極発生 

人体も小磁石と言える 

  

コイルに電気を流せば磁極が生まれる 

電子がコイルの中を流れている 

物質の中には複雑な原子が沢山並んでいる 

原子核の周りに電子が回っている 

原子の中心に原子核があり+の電気、-の電子が周りを回る…引き合う力と遠心力 

電子のスピン(自転)・・・消耗しない持続力発生 

  

自転の方向は2つ左右、上下 

回転がS極とN極を作り地場を発生させる 

電子のスピンが逆同士は一体となる。 

が同じもの同士は一体とならない。 

陰と陰 

陽と陽 

陰陽なら一体となる。と、同じこと。 

  

易経と量子力学の共通点 

  

易経は・・・天神合一(ヨーガは梵我一如) 

量子力学・・科学的に宇宙の法則を見出し、人間の存在価値を証明する 

  

量子力学で、この宇宙の真理を科学的に読み解いていきます。が、参考にしているのが2000年以上前に書かれた易経なんです。陰陽の二元論を元に、原子核、さらに素粒子に至るまで限りなく小さくしていくと・・・そこには陰陽の法則が如実に表れてきます。 

  

  

太極拳と易経・量子力学 

  

易経 

宇宙には、はじめ何もなかった。 

混沌とした空間だけが存在していた。 

気が遠くなるほど時が流れた。 

  

やがて二つの物質らしきものが芽生え始めた。(ゆらぎ) 

  

道の働きと言っていいのかもしれない。 

  

陰と陽が混ざり合い巡り合い・・・ 

それはやがて一つの新しい物質を作り出すに至る。 

それが今いる私たちすべての始まり。 

  

量子力学 

宇宙は何で出来ているか? 

この問いからすべてが始まる。 

  

科学者たちは物質が何からできているかを探るため・・・ 

限りなく細分化していく。 

原子・原子核・分子・素粒子・電子・・・ 

  

最小単位のクオークは二つの物質から出来ている。 

クオークと反クオーク・・・陽と陰 

  

アインシュタインは東洋思想の「易経」に出会う。 

昼夜忘れて読みふけったという。 

あまりの共通性に驚愕した。 

2000年以上前の古代中国人は知っていたのだと・・・。 

  

太極拳 

中国の陳家溝で一つの護身術が生まれた。 

嵩山少林寺の拳法に打ち勝つためだった。 

その憲法を13勢とも長拳とも言った。 

  

王宗岳という人物が、13勢に易経の理論を結びつけた。 

その書物を「太極拳論」という。 

長いこと日の目を見なかったその書物が偶然塩屋で発見される。 

  

その後、13勢・長拳と云う拳法は太極拳と呼ばれるようになった。 

1850年頃の話です。 

  

太極拳は連綿とした動きの中で、敵にダメージを与える前に、敵に戦うことを諦めさせる、若しくは戦わない方向にもっていく拳法です。 

太極拳を使う者は、息も切らさず体力も消耗しない。 

相手は、やがて体力を消耗して戦うことを諦めるのだ。 

  

やがて太極拳家が待ち望む太平な世が続いた。 

陰陽の法則が太極拳家をより健康へと導いた。 

  

そう新たな物質、新たな新境地が誕生したのだった。 

そのことを超人類という。 

五感を超えた能力。 

危険予知能力や護身術にたけた人類の誕生だ。 

  

クオークと反クオーク 

陰と陽 

二つの物質が巡り巡って新たな価値観を産出す。 

  

太極拳家は、身体でそれを表現する。 

  

《ゼロ・ポイント・フィールド》 

※ゼロ・ポイント・フィールドとは、ドイツの哲学者ユング提唱による集合的無意識の領域のことをいいます。 

まだ、仮説ですので科学で証明はされていませんが、無意識の領域へアクセスすれば引き寄せ力が発揮されたり、ものを創造するのに自分以外の外部から入手する方法は、左近の心理学や物理、量子物理学等では既に当たり前で最先端の科学が証明しつつあります。 

『黄帝内経』(こうていないけい)

 

易経や氣功の本元です。 現代医学の盲点である対症療法から根本治療なる未病のうちに病の根を根絶する方法が書かれています。

参考にしてください。 

中国最古の医学書と呼ばれています。 

古くは『鍼経』9巻と『素問』9巻があったとされていますが、現在は王冰(おうひょう)の編纂した『素問』(そもん)と『霊枢』(れいすう)が伝えられています。 

黄帝が岐伯(きはく)を始め幾人かの学者に日常の疑問を問うことから『素問』と呼ばれ、問答形式で記述されています。 

『霊枢』は『鍼経』の別名とされ、『素問』が基礎理論とすると、『霊枢』は実践的、技術的に記述されています。 

  

『素問』が理論的であるのに対し、『霊枢』はより実践的に記述されています。『素問』の内容は医学にかぎらず、易学、天候学、星座学、氣学、薬学、運命学と広くさまざまな分野に及び、医学書というより科学書と呼ぶべきであるという意見もあり、道教(老子を開祖とする宗派)にとっても原典の一つとされています。 

現在『黄帝内経』の原本は残っておらず、さまざまな写本が存在し、日本では京都の仁和寺に日本最古の『黄帝内経太素』の写本が所蔵されています。『太素』(たいそ)は7世紀ころの写本で、唐代の楊上善が、『素問』と『霊枢』を合わせて編纂したものです。 

『黄帝内経』18巻のうち、1部にあたる9巻を『鍼経』と呼び、2部の9巻を『素問』と呼び、『鍼経』は経脈、経穴、刺鍼、また営衛、気血など系統的で詳細に説明されています。 

  

未病(みびょう)という用語は、『黄帝内経』で初めて使用されました。 

「聖人は既病を治すのではなく、未病を治す」と、云われます。 

既病(きびょう)とは、既に症状が出ている状態。 

『黄帝内経』では未病とは病気(病原体)は体内にあるのに、症状が体表面に出ていない、しかし治療しなければ発症が必至な状態をさします。 

 

『黄帝内経』は、陰陽五行説(陰陽=月と日で、五行=木火土金水で7つの天体を意味します。実際には5つに氣の種類陰陽の転換でこの世は成り立つという思想です。)にのっとって記述されています。『史記』には、陰陽五行説は黄帝が定めたとされていますが、『黄帝内経』については記述されていません。このことから『黄帝内経』は、『史記』より後に編纂されたと考えられています。『漢書』「芸文志」によれば、『黄帝陰陽』25巻、『黄帝諸子論陰陽』25巻などがあったと伝えられていますが、現存はしていません。 

 

 

黄帝内径が書かれていた時代、人が生きていることを「全体的に」「包括的に」捉え、生命の営みを緻密に診ていました。 

人と自然の関係、臓器同士の結びつき、心と身体との関連です。病気だけを問題にするのではなく、その人の習慣や感情の傾向、食事、またはその人の住んでいる土地、季節などとの関わりから、総合的に診ていました。人が健康で寿命をまっとうするためにはどうあるべきか、哲学の観点から病気を考えていたのです。これは最近、現代医学が目を向けはじめた「生活の質」(QOL)を高めるという発想ときわめて近いものがあります。身体に負担をかけず、自然のルールに従って健康を保持し、病気を克服するというものです。奇しくも、現代の生活に足りないとされている、まさにその要点がこの書物にあふれています。 

  

《漢方、鍼灸、氣功の違い》 

今日、中医学と呼ばれているものには、漢方や鍼灸、それに氣功などが含まれています。中医学とは、「中国の医学」という意味で、これらの源はすべて『黄帝内経』にあります。後世の人たちが『黄帝内経』の中からそれぞれの領域を専門化したものが漢方や鍼灸、氣功というわけです。当時、氣功という言葉はなく、「導引按摩」と呼ばれていました。 

『黄帝内経』は中医学の原点であり、総合医学といえますが、そこから様々な分野に分かれたことからもわかる通り、漢方、鍼灸、氣功にはそれぞれの特徴と特性があります。 

漢方は生薬などを患者に服用させることで、特定の臓器に行き渡らせ、他の臓器とのバランスを整え、経絡の流れを改善し、体内の気の流れを良くします。 

漢方で使う薬の数はたいへん多く、日本の厚生労働省が認めているものはだいたい210種類くらいですが、中国では13,260種類、772科目にも及びます。 

漢方だけで治らない場合、直接的な方法として鍼灸があります。河北省藁城県台西村で発見された殷代(紀元前1600年〜前1046年)の遺跡から石や骨で作った鍼が出土しており、鍼治療は石器時代からあったことが推測されます。それがいつしか金属製の鍼でツボを刺激し、身体のバランスを整えるという技術として発展してきました。 

鍼灸は生命力である氣の通り道「経絡」上にある経穴(ツボ)を刺激し、氣の流れを整え、臓器の調整を行い、病気の改善を行う方法です。 

熱を加えたり、圧したり、刺したりといったように直接身体に触れる方法で、当時としては、いまでいう外科手術に近い療法だったのだと思われます。むろん鍼以外にも外科的な手法はあり、解剖手術も古代に行われていた実績があります。 

「心」という字は、心臓を模ったものですが、解剖を経ずして、もとの象形文字の形が生まれることはなかったと考えられるからです。そうした人体を切開した経験の蓄積があったためか、紀元200年頃『三国志』にも登場する名医の華陀という人物が麻酔を使った手術を行っていたという記録もあります。 

ところが、身体を切開するような外科手術はその後、中国ではあまり発展しませんでした。おそらく身体の働きのバランスを整える上で、ベストの技術ではなかったからだと思われます。なぜなら切開しなくても、より直接的に身体を治療していく手法があり、それが導引、つまり氣功です。 

中国では病院に氣功科が設けられ、公的な医療として認められている程です。しかし日本では、氣功によって病気が改善した症例がたくさんあるにもかかわらず、超能力のようなものとして扱われることはあっても、医療行為としての評価を受けることは少ないのが現状です。 

中国では「不通則痛」といい、氣のめぐりが悪くなるから病になると考えられています。 

氣功は通じにくくなった経絡の中の氣を開通させる手段です。 

  

  

《黄帝内经》 

上卷 素问篇 

在线阅读 第一篇 上古天真论 第二篇 四气调神大论 第三篇 生气通天论 第四篇 金匮真言论 第五篇 阴阳应象大论 第六篇 阴阳离合论 第七篇 阴阳别论 第八篇 灵兰秘典论 第九篇 六节藏象论 第十篇 五藏生成 第十一篇 五藏别论 第十二篇 异法方宜论 第十三篇 移精变气论 第十四篇 汤液醪醴论 第十五篇 玉版论要 第十六篇 诊要经终论 第十七篇 脉要精微论 第十八篇 平人气象论 第十九篇 玉机真藏论 第二十篇 三部九候论 第二十一篇 经脉别论 第二十二篇 藏气法时论 第二十三篇 宣明五气 第二十四篇 血气形志 第二十五篇 宝命全形论 第二十六篇 八正神明论 第二十七篇 离合真邪论 第二十八篇 通评虚实论 第二十九篇 太阴阳明论 第三十篇 阳明脉解 第三十一篇 热论 第三十二篇 刺热 第三十三篇 评热病论 第三十四篇 逆调论 第三十五篇 疟论 第三十六篇 刺疟 第三十七篇 气厥论 第三十八篇 欬论 第三十九篇 举痛论 第四十篇 腹中论 第四十一篇 刺腰痛 第四十二篇 风论 第四十三篇 痹论 第四十四篇 痿论 第四十五篇 厥论 第四十六篇 病能论 第四十七篇 奇病论 第四十八篇 大奇论 第四十九篇 脉解 第五十篇 刺要论 第五十一篇 刺齐论 第五十二篇 刺禁论 第五十三篇 刺志论 第五十四篇 针解 第五十五篇 长刺节论 第五十六篇 皮部论 第五十七篇 经络论 第五十八篇 气穴论 第五十九篇 气府论 第六十篇 骨空论 第六十一篇 水热穴论 第六十二篇 调经论 第六十三篇 缪刺论 第六十四 四时刺逆从论 第六十五篇 标本病传论 第六十六篇 天元纪大论 第六十七篇 五运行大论 第六十八篇 六微旨大论 第六十九篇 气交变大论 第七十篇 五常致大论 第七十一 六元正纪大论 第七十二篇 刺法论 第七十三篇 本病论 第七十四篇 至真要大论 第七十五篇 着至教论 第七十六篇 示从容论 第七十七篇 疏五过论 第七十八篇 征四失论 第七十九篇 阴阳类论 第八十篇 方盛衰论 第八十一篇 解精微论《黄帝内经》 

  

《例》 

*第一篇 上古天真论 

黄帝が問う「昔の人は、百歳を超えても衰えはしないと聞いたが、何故今どきの人は50歳ぐらいで皆衰えてしまうのか?」 

岐伯が言う「その時の人は、養生の事を良く心得、四時陰陽に応じて暮らしていた。彼らは飲食に節度があり、寝起きは規則正しく無理な力使いはしなかった。」 

*四時陰陽・・・四季(春夏秋冬)の移り変わりに応ずる。という意味です。 

  

下卷 灵枢篇 

第一篇 九针十二原 第二篇 本输 第三篇 小针解 第四篇 邪气藏府病形 第五篇 根结 第六篇 寿夭刚柔 第七篇 官针 第八篇 本神 第九篇 终始 第十篇 经脉 第十一篇 经别 第十二篇 经水 第十三篇 经筋 第十四篇 骨度 第十五篇 五十营 第十六篇 营气 第十七篇 脉度 第十八篇 营卫生会 第十九篇 四时气 第二十篇 五邪 第二十一篇 寒热病 第二十二篇 癞狂病 第二十三篇 热病 第二十四篇 厥病 第二十五篇 病本 第二十六篇 杂病 第二十七篇 周痹 第二十八篇 口问 第二十九篇 师传 第三十篇 决气 第三十一篇 肠胃 第三十二篇 平人绝谷 第三十三篇 海论 第三十四篇 五乱 第三十五篇 胀论 第三十六篇 五癃津液别 第三十七篇 五阅五使 第三十八篇 逆顺肥瘦 第三十九篇 血络论 第四十篇 阴阳清浊 第四十一篇 阴阳系日月 第四十二篇 病传 第四十三篇 淫邪发梦第四十四篇 顺气一日分为四时 第四十五篇 外揣 第四十六篇 五变 第四十七篇 本藏 第四十八篇 禁服 第四十九篇 五色 第五十篇 论勇 第五十一篇 背腧 第五十二篇 卫气 第五十三篇 论痛 第五十四篇 天年 第五十五篇 逆顺 第五十六篇 五味 第五十七篇 水胀 第五十八篇 贼风 第五十九篇 卫气失常 第六十篇 玉版 第六十一篇 五禁 第六十二篇 动输 第六十三篇 五味论 第六十四篇 阴阳二十五人 第六十五篇 五音五味 第六十六篇 百病始生 第六十七篇 行针 第六十八篇 上膈 第六十九篇 忧恚无言 第七十篇 寒热 第七十一篇 邪客 第七十二篇 通天 第七十三篇 官能 第七十四篇 论疾诊尺 第七十五篇 刺节真邪 第七十六篇 卫气行 第七十七篇 九宫八风 第七十八篇 九针论 第七十九篇 岁露论 第八十篇 大惑论第八十一篇 痈疽 

  

《例》 

*第三十三篇 海论 

人体には12の経脈がある。経脈は川のようなものである。 

川は海にそそぐ。経脈も人体の海にいく。 

氣の海・・・壇中は氣の集まるところで「氣海」という。 

氣海が充実過ぎると胸が詰まり、息が苦しく、顔面が紅潮する。 

氣海が空虚になると、呼吸は浅く、声が低く、元気がなくなる。 

*氣海・・・現在の氣海は、お臍の直ぐ下あたりを指す。お臍を氣海として両手で温めれば精神は落ち着きます。