ナイトスタンド・ブッディスト 

1.はじめに    

世界は今、新型ウィルスの影響下にさらされ、日常生活や経済活動をはじめ、我々の身体も日々のストレス等で、かつてない危機に面しています。これから先、どんな世の中が待っているのか、前のような生活には戻れないと、悲観的に考えている方が多いのではないでしょうか。 
 
そんな中で、今のこの瞬間を大切に生きる。過去を羨み、未来を不安視することをやめて一日一日を淡々と過ごすマインドフルネス技法が静かなブームとなっています。そのルーツは、今から2500年程前に、今の世の中と同じような状況下で、一人の人間がすべてを捨てて魂の向上へと修行し布教した記録が、経典の中に残されています。 
 
釈迦国の王子ゴーダマ・シッダールタは、どうしたら「苦しみ」から逃れられるか。 
 
ただ、それだけを日々の修行に解答を求めます。後の仏陀の姿です。 
 
そして、とうとう真理を悟ったのです。 
その方法を今の私達にも、その短い経典は教えてくれます。 
 
その経典の名は・・・。 
 
「仏説 摩訶般若波羅蜜多心経」 
 

 ダライ・ラマの著書「般若心経入門」で、チベットの般若心経には「本文」の他に「前段」と「後段」があることを知りました。普段、私達が目にしている般若心経は、玄奘三蔵訳の「本文」だけで、「前段」や「後段」はありません。 
「前段」、「後段」のある般若心経を大本と呼び、私達が目にする般若心経は一般的に小本と呼ばれています。 
今回、「般若心経」の「前段」と「後段」の訳をよく吟味して、「本文」を再度読み直していくと、宗教学者や名高い僧侶諸氏の書かれた、世に出回る般若心経の解釈本とは、また違った形の般若心経が姿を現してくれました。 
 
そして、隠された『ブッダ・コード』が、 
羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

 

この呪文といわれる中の一文字、その一文字が際立って光り輝いて観えて来たのです。 
 
玄奘三蔵が何故、呪文を訳さずにサンスクリット語の発音(音写)で漢字に置き換えたのか、それは呪文だからという理由だけでは無く、般若心経の真髄、すなわち般若波羅蜜多瞑想を、この呪文の中に忘れないように書き留めておく為であったのだろう。と、確証できるに至りました。 
 
   少し前、YouTubeで歌うお坊さんこと薬師寺寛邦(やくしじかんほう)氏の動画「般若波羅蜜多心経」を偶然、見ました。ボーカルデュオ「喫茶去」のメンバーであり、愛媛県今治市の海禅寺の副住職でもある彼はインタビューで、こう答えていました。 
 
「二足のわらじという感覚でもありますが、一つのことをやっている感覚でもあります。お経と歌は似ています。」 
 
薬師寺さんの歌う般若心経を聞いていますと、圧倒的な迫力と美しいメロディ、そして高揚感と安心感があり、不思議と周りの空気までも清らかさが漂います。それより何よりも、般若心経を自然と覚えることが出来てしまいます。 

 
 
 学生時代、歴史の年号を覚えるのに、例えば、1192年の鎌倉幕府は「いい国作ろう鎌倉幕府」と、リズムを付けて声に出して覚えた経験は誰にでもあるのではないでしょうか。それと同じで、私達の脳は文書にリズムを付けると自然と覚えてしまうようにできていることは、経験として誰でも知っていることでしょう。 
 
ブッダ入滅後、第一結集によってブッダの弟子たちが思い思いに、ブッダの教えを口伝えで復唱し確認し合いました。 
文字がない時代、短い偈として忘れないようリズムを付けて、記憶に留めていったのは、ごく自然のことだと思います。 

原始仏教の聖典「スッタニパータ」は、短い偈の集まったブッタの教えです。 
古代インドの人々も私達と同じ人間です。同じ脳をもっていたはずです。 
 
以上のことから、般若波羅蜜多瞑想で苦を取り除く具体的な方法を、呪文の中に組み込んだのではないか、と考えました。 
  

   表題の「ナイトスタンド・ブッディスト」とは、アメリカの仏教を信仰している人々の間で使われている言葉で、仏教に魅せられた個人個人が、ブッダの教えを自分で勉強して、瞑想のやり方も自分で学び、普通に仕事を続けながら、仏教的な考え方を生活の中に取り入れている人々のことを総称して使われています。 
  

一介のサラリーマン太極拳家から見た般若心経を是非、楽しんで下さい。 
 
愛北太極拳クラブ 倉知 
月影に揺れながら。2020.5.吉日 

  

  

2.般若心経 大本「前段」 

  

時は645年、玄奘三蔵(602〜664)が遠く、天竺から膨大な経典群を携えて洛陽の西にある都、長安に到着した頃であった。 
 
唐の洛陽(中国河南省)第二代皇帝・太宗(598〜649)は、龍や鳳凰が豪華絢爛に壁面に彫られた宮廷内で、サンスクリット語から漢語に翻訳された仏教経典大般若経に目を通していた。 
 
凛と張り詰めた厳かな空気の中、太宗がボソリと、重い口を開いた。 
 
「天竺から我が国に持ち込まれたブッダの教えは、難解で朕には理解し難い。また無味乾燥でおもしろくない。もっと短くわかりやすいお経にできる者はおらぬか。」 
 
固唾を飲んで聞いていた数人の部下の一人、房玄齢(579〜648)が、下を向きながらゆっくり低い声で答えた。 
 
「皇帝もご存知、玄奘三蔵が今、西の都長安の大慈恩寺に来ております。きっと玄奘なら皇帝のお気に召すお経ができるものと思います。」 
 
皇帝太宗が、国の規則まで破り天竺へ旅立った玄奘を許した訳は、西域進出を目論んでいた太宗にとって、玄奘の旅した西域の詳しい情報がどうしても必用であったし、玄奘が天竺僧の真諦(パラマールタ/499〜569)の唯識思想の根本経典「ヨーガーチャーラーブーミ」を持ち帰ってきたことを知っていたからである。太宗もまた今までの儒教や道教思想を超えた新しい思想、唯識思想に興味を抱いていことに他なりません。 
 
「房玄齢よ、直ぐに取りかからせるよう玄奘に言い渡せ!これは命令だ、冬までに持ってこいと伝えるのだ。」 
 
かくして、大般若経典の600巻にも及ぶ経典が、たった262文字にブッダの教えが織り込まれることになるのである。 
 
  

天山山脈の稜線が白く青い空とのコントラストを、より一層際出たせる季節がまた、すぐそこまで来ていた。 

 
夏の終わりを告げるひぐらしの声も、なにかしら元気がない。 

朱色に染まる唐の都、洛陽に吹き込む風は、太陽が西の空に沈む頃、昼間の温度との寒暖差がより一層身に沁みる季節でもある。 

 
時は流れて玄奘三蔵は大般若経典の真髄、般若波羅蜜多心経を完成させたのである。 
 
房玄齢は自信に満ちた声で、皇帝の前へ墨が完全に乾く間もない「般若波羅蜜多心経」と書かれた巻物を一つ差し出した。 
 
「皇帝、出来上がりました。何と!600巻もある大般若経典を、わずか1巻にまとめ上げた般若波羅蜜多心経でございます。どうぞお目通りを」 
 
皇帝は手に取り読み進めること数分、眉間に皺を寄せ重い口を開いた。 
 
「うむ流石は玄奘。だが、この前段部分は必要ない。もっと短くするのだ。民衆にも直ぐに唱えられるよう、我が国が新しい仏教、大乗仏教の先駆けとなる為にな。」 
 
大宗は目を輝かせ大乗仏教を礎に、西域への進出を有利に進めようとしていた。 
 
玄奘は、皇帝太宗の命令を断るわけにはいかなかった。国の規則まで破り天竺までの旅を許され、国費を使って翻訳事業に集中できるのは、皇帝太宗の恩赦のお陰であることは痛いほど理解していし、皇帝太宗からの外交担当特別顧問役へのお誘いを断ったことも大きな理由でもあった。 
 
前置きが長くなりましたが、省かれた前段部分を、みなさんと一緒に見ていきましょう。 

  

《般若心経 「前段」》 

 
 如是我聞 一時仏在王舎城耆闍崛山中  
与大比丘衆及菩薩衆倶  
 
このように、私は聞きました。ある時仏陀は、王舎城の霊峰・霊鷲山にて、沢山の比丘や菩薩達と一緒に居ました。 

  

時仏世尊即入三昧 名広大甚深 爾時  

衆中有菩薩摩訶薩 名観自在 

 
その時、仏陀は直ぐに深い瞑想状態に入りました。すると、観音様も同じ様に瞑想状態に入ったのです。 

  

行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 

  

深遠な般若波羅蜜多瞑想に入り、五蘊は全て空と見切りました。 

  

離諸苦厄 即時舎利弗承佛威力  
合掌恭敬白観自在菩薩摩訶薩言 
 
そして苦しみは離れていく。 
その時、舎利子は仏たちに急かされて、 
合掌して敬い、観音様に質問しました。 

  

善男子 若有欲学甚深般若波羅蜜多行者 
云何修行 如是問已 
 
観音様、若者達が般若波羅蜜多瞑想を学びたいと申しております。 

どのようにして、般若波羅蜜多瞑想を実践すればよいのでしょうか、教えてください。 

  

 以上が省かれた前段です。私達が唱える般若心経に前段は出てきません。 
 
この前段で分かることは、仏陀と観自在菩薩は深い瞑想状態に入った。そして、観自在菩薩は、五蘊は全て「空」と見切り、苦は消え失せた。と、いうことです。 

般若心経の前段では、舎利子達が観自在菩薩に苦を消え失せさせる偉大な般若波羅蜜多瞑想のやり方を教えて欲しいと、請うていることが解ります。 

  

では、「空」とは一体どんな状態をいうのでしょう。 

中村元先生のYouTube動画に「空」を説明されているインタビューがありましたので、要約してみました。 
 
空の思想は600巻ある大般若経典に訳され、玄奘三蔵が漢訳しています。 
 
般若心経は、この大般若経典のエッセンスを262文字に集約されているのです。 
 
空とは、あらゆる事物は実態を持っていない。と定義しています。 
 
ところが、我々は見るもの全てに固定的な実態を持っている。と思っています。 
しかし、固定的な実態を持っている永遠不変な物はこの世にはありません。 
存在していません。 
実態はない。固定的では無い。 

これが空の思想です。 

 
 
空の思想は、原始仏典にも見られますが、大般若経典はさらに空を発展させています。 それを大乗仏教の基本的な教えとしているのです。 我々は固定的な観念を抱いてはならない。ありとあらゆる物は空である。と見極めることが必要です。 
 
また、あらゆる事物というのは、他のモノに条件付けられて成立しています。 このことを相互依存と、いいます。 
 
煩悩や悩みが固定した永久不変なものであるならば、無くなることはありえません。 しかし、執着や悩みや苦しみの本体は空であるのだから、修行によって無くする、無にすることが出来ます。 これを、『無常の悟り』と、いいいます。 
 
要するに自分に気がつく。ということです。 それ以外に方法はありません。 
 
般若波羅蜜多心経の般若とは、真実の智慧という意味です。正しい認識とも言い換えられます。 

波羅蜜多とは完成、究極に至るという意味です。 心経の心は精髄、肝心要のお経という意味です。 

般若波羅蜜多心経とは、 「真実の智慧の完成に至る心の真髄、肝心要の教え」ということになります。 

  
照見五蘊皆空とは 

五蘊とは、この世界を構成する要素のことです。私達人間の外部との接点、「色受想行識」をいいます。 

 
仏教でいう世界とは、現実世界ではなく、私たちが、感じ、想い、関わって認識している世界をいいます。 

現実的には、そこに何らかの物体があったとしても、それを感受せず、想起せず、認識していなければ、無いのと同じです。 
 
私たちの世界は、認識によってできています。言い方を変えれば、主体と客体、見ている者と見られているものとの関係によって、認識された世界を、仏教では世界と呼び、現実の世界と認識された世界は、同じではありません。 
 
感受し表象するときに、人それぞれの意味づけがなされるので、あるがままの現実を感受することはできません。 

意味づけされた世界とは、鏡に映った影像と同じです。 

  

本物そっくりに映っていても、それは仮想された世界です。実体は有りません。つまり、空です。 

 
色とは、物質的現象のことです。物が存在するのは、それを見て認識した結果です。「それを見る」という因縁が結ばれなければ、その存在は認識されません。認識されなければ、存在の有無についての断定はできないのです。「受想行識」は後程の章で詳しく説明いたします。 
 
私たちは、現実の世界を見て、聞いて、触れていると思っていますが、そのような断定はできません。 
 
私たちは、現実のそれを見ているわけではなく、光信号を受けて、その信号を脳で仮想して影像にしているだけなのです。 

具体的にいいますと、目の前にある雄大な自然の景色を見て、「なんて綺麗な景色でしょう」と思う人もいれば、「なにか物悲しい景色だ」と感じる人もいます。見る者によって同じ景色でも、違ったふうに見えてしまいます。 
 
私たちが見ているものは、現実世界ではなく仮想世界です。実像ではなく、影像を見ているのです。鏡に映った影像に実体がないように、私たちの世界にも実体はありません。 

それが空と、いうことになります。 

 
次は、後段をみていきましょう。 

        

3.般若心経 大本「後段」 

  

  前段が省かれた般若心経を持って、房玄齢が再び皇帝の前に現れたのは、厳しい冬が過ぎ冷たい雪解け水が、洛河に流れ、やがて黄河へ、そして大海へと、その一滴が長い旅を始める頃であった。 

 
余談になりますが、アクション映画スターのジャッキー・チェンこと房仕龍は、房玄齢の末裔だと豪語していますが、本当のことはわかっていません。話を元に戻します。 
 
皇帝の一室は、時間が静止したかのように、部下達は固唾を飲み神妙に皇帝の反応を待っていました。 
 
「うむ流石は玄奘、よい出来だ。が、しかし…後段部分を除けば、もっと短くなる。民衆が唱えやすい、未来永劫唱えられる経にするのだ、この後段も必要ない。すぐに削除させろ!すぐにな!」 
 
太宗は苛立っていた。それは、今の朝鮮半島を支配している高句麗遠征の準備に取りかかっていて、時間的な余裕は無かったからであろうと、考えられます。太宗の野望は、東は朝鮮半島、西は中央アジア、インドのみならず東ヨーロッパまでの制覇を計画していたからです。 
 
では、皆さんと一緒に後段部分を見ていくことにしましょう。 
 

《般若心経 「後段」》 
 

如是舎利弗  
諸菩薩摩訶薩於甚深般若波羅蜜多行 
応如是行 如是説已 
 
舎利子よ、 
菩薩達のように、人々を悩み苦しみから救い出す瞑想方法を般若波羅蜜多瞑想といいます。 
上述(本文)の様に実践しなさい。 
 
  

即時世尊従広大甚深三摩地起 
讃観自在菩薩摩訶薩言 善哉善哉 
 
この時、仏陀は三昧状態から起きあがりました。そして観自在菩薩を褒め称えたのです。 
素晴らしい。素晴らしい。 
   
善男子 如是如是 如汝所説 
甚深般若波羅蜜多行 応如是行 
如是行時一切如来皆悉随喜
 

 
立派な若者たちよ、まさにその通り、その通りなのだ。般若波羅蜜多瞑想を観自在菩薩が説いた如く行うならば、全ての如来も皆ことごとく喜ぶことぞ! 
  
爾時世尊説是語已 具寿舎利弗大喜充遍 
観自在菩薩摩訶薩亦大歓喜
 

 
仏陀はこのように話されました。 
舎利子は、これ以上にない喜びに満ち溢れました。観自在菩薩もまた大いに歓喜しました。 
 

時彼衆会天人阿修羅乾闥婆等聞仏所説皆大歓喜 
信受奉行 般若波羅蜜多心経 
 
その時、その場にいた天人や阿修羅達、この世のすべての者が大歓喜しました。 
そして至福の喜びに包まれたのでした。 
これが般若波羅蜜多瞑想の苦から解放し、涅槃に至る方法です。 
 
以上が後段部分です。 
 
前段部分と後段部分を読みますと、般若波羅蜜多瞑想のやり方、システムのことを、「本文」で観自在菩薩が舎利子達に説明している。と予想できるのではないでしょうか。 
 
私達が目にする般若心経には、この「後段」は出てきません。先に見た「前段」もありません。 
 
今、私達は般若心経の前段と後段を知りました。そして分かったことは、般若心経は仏陀と観自在菩薩が体得した般若波羅蜜多瞑想で空の境地を悟り、苦を消滅させる理論と方法が、本文で述べられているはずだ。という期待感。いや、書かれていなければ、逆におかしいのではないでしょうか。 
  

前段と後段を、思い出して本文を読んで見てください。きっと、観えてくるはずです。 

  

 その前に、皇帝太宗と玄奘三蔵は一度面識があります。 
そのことが慈恩伝に書かれていますので、ここでちょっと紹介したいと思います。 
 
 慈恩伝(長安の大慈恩寺にて、玄奘の組織した訳経場に文章係として参加していた慧立らによって書かれた三蔵法師伝)によれば、 

太宗が高句麗遠征前に一度玄奘と洛陽の宮殿、奥まった儀鸞殿で運命的な出会いがあったことを伝えています。 

最初、太宗は高句麗討伐へ向かう最中であり、時間的な制限の中でほんの短い予定であったのが、なんと終わってみるとまる一日玄奘と話し込んでいたと慈恩伝は伝えています。 

その内容は、今まで伝えられていた西域の様子とは異なった新たな情報の宝庫で、太宗にとっては目に鱗、それほど玄奘の情報に聞き惚れていたことが分かります。 

後に、その時の様子を太宗は義兄にこう話しています。 
「むかし前秦の皇帝符堅は、高僧の道安を神の器だとほめたたえ、国をあげて彼を尊んだ。いま玄奘三蔵に会ってみると、その言葉は典雅で、風貌も礼儀もしっかりとし、まごころがあらわれている。昔の人に恥じないどころか、はるかに抜きんでている」と話し、会見は朝の六時から夕方の六時まで一日がかりで延々と続いた。とあります。 

  

面白いエピソードなので紹介してみました。では、いよいよ本文に移ります。 

  

4.般若心経 小本「本文」 

  

    山桜の花びらが一枚、長い冬を越えて唐の都、洛陽皇帝宮の庭に音もなくヒラヒラと、まるで蝶が舞うように落ちてきた・・・。 

庭先に咲く白い牡丹の花は、淡くフルーティに香り、天山山脈からの冷たい風に運ばれ、人々の心を癒やし始めた頃262文字の般若心経は完成した。 
 
「これは素晴らしい!よくぞでかした。朕は満足じや!この躍動感、最後の偈に般若波羅蜜多瞑想を仕込むとは、玄奘も大したものよ!でかした房玄齢!ゆっくり休むと良い。」 
 
皇帝太宗は、前段と後段が省かれ修正された「般若心経」を、世に広めるよう部下に命令したと同時に、房玄齢に玄奘三蔵が取り組んでいる西域の編纂を急ぐよう命令した。 
 
後に完成された西域記は、玄奘奉詔撰「大唐西域記」全十二巻として世に出回ることになる。 
 
また、「ヨーガ・チャーラブーミ」のちの「瑜伽師地論」百巻は、「大唐西域記」完成後、二ヶ月後に完成することになる。 
 
かくして、日本にも前段と後段のない般若心経が伝わったのである。 
  

ここで、読者の皆さんは、「おかしい」と気づくことでしょう。 

般若心経は、インドから持ち帰られて、中国で漢訳されたはずだ、と。 
 
しかし、般若心経の中国成立説は欧米では一般的で、アメリカ人の仏教学者ジャン・ナティエ博士の般若心経中国成立論文を支持している仏教学者は多くいます。 
 
サンスクリット原文と中国語原文を比較してみますと、それぞれのお国柄思想が色濃く存在しています。大般若経はインドから中国に持ち込まれたことは確かですが、その要約本の般若心経は中国で作られた確率はやはり高いと思います。その理由を以下に説明したいと思います。 

  
前段と後段が理解できると、本分も正しく解釈できると思います。また、般若心経が成立した頃、唐の政権に最も近い位置を保っていた宗教は道教でした。道教もまた玄奘三蔵が幼少期に老子道徳経を学んだ経験もあり、般若心経には道教の中心「道」の陰陽転換理論の原則が、みて取れます。 
  

 
《老子 道徳経》 

「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず。万物は影を負い陽を抱き、沖氣以て和を為す。」 
 
最初に出てくる「道」は、天地よりも先に存在する「なにか」であって、「無」を指します。 
 
それを姿かたちのない存在として認識したものが「一」としての氣です。 
 
さらにそれが陰陽の二つに分かれて、「二」となり、沖氣(陰と陽の氣を作用させること)が作用して「三」となり、そこから万物が生まれると、いう基本思想です。 

  
「無」からすべてが生み出されるというと、なにもないところから生まれるはずがないだろうと思ってしまいますが、老子は「無」というものを、なにもないのではなく、「ありとあらゆる可能性を含みもつ状態」と定義しています。 

  
例えば、 
フイゴがそうです。フイゴとは風を送り火をおこす扇子の機能を持ち合わせたものです。 
フイゴの中は「空っぽ」で、空間があるだけです。が、しかしこの空間、空っぽでないと空気の出し入れは出来ません。何も無いことが、火をおこす為に必要なのです。 
 
物入れもそうです。中が「空っぽ」だから、物入れとしての機能があるのです。空っぽでなければ物入れの機能はありません。ただの置物です。 
 
ですから、無=空ということになります。 
 
これが、色即是空 空即是色の道教的解釈です。 
  

私が指導しています太極拳はまさに、その陰陽転換運動を身を持って体得する武術なのです。 
 
太極拳家からすれば色即是空、空即是色は陰陽の転換エネルギーで、万物の発生原理、自然の法則、宇宙の法則そのものです。そのことは、体感的に理解できるのです。 
 
余談ですが、玄奘の本名は陳緯(チンイ)といい、拳法で有名な河南省の少林寺から目と鼻の先に有る小さな村(陳式太極拳の発祥地陳家溝も近い)で出生しています。玄奘が武術に、長けていたかどうかは知るすべもありませんが、よほど腕に自信がないと、天竺まで行く度胸はないでしょう。ひょっとして拳法の達人だった…かも知れません。 
  
《ヨーガーチャーラーブーミ》 

そして、もう一つ忘れてならないのが、何故、玄奘は国の決まり(この頃の中国では、外国へ行くのに皇帝の許可なしでは渡航できない決まりでした。)を犯してまで、遠く天竺を目指して行くほどのモチベーションを持ち合わせていたのか、そのことを知っておく必要があります。 
 
それは、インド仏教瑜伽行の根本経典ヨーガーチャーラーブーミを持ち帰ること、後の『瑜伽行地論』(瑜伽行者・ヨーガの実践者の修行や悟りの境地などを説き100巻にも及ぶ)の完成を目指していたことに起因します。 

若い玄奘にとって玄奘が生まれる50年程前にインド僧パラマールタ(中国名・真諦)により持ち込まれた唯識思想(一切の存在は識、すなわち心にすぎないとし、ヨーガの実践によって自分の心の在り方を変革し悟りに達しようとする考え)が、不完全なまま伝えられて是が非でもその真実を知りたい、その為にこの経典の翻訳が唯一であったのである。 
  

よって玄奘の訳した般若心経は、道教の知識と、ヨーガの基本理念である古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りを目指していることを念頭に置いて、「小本」般若心経を読む必要が有ると考えます。 
 
ヴェーダの基本思想は個人の実態としての我が、宇宙に偏在する梵と同一であり、「梵我一如」ブラフマン(梵)と、アートマン(我)の一体をめざし、永遠なる生命を得ることにあります。これは道教とも相通ずるものなのです。 
 

《曼陀羅に見る空と無》 

曼陀羅には、胎蔵界曼陀羅と金剛界曼荼羅があります。 
 
サンスクリット語のमण्डलマンダーラとは、丸い円と云う意味で完全をいい表しています。 
 
胎蔵界曼陀羅は12(6)の部屋に仕切られ、金剛界曼荼羅は9の部屋に仕切られています。 
 
胎蔵界曼陀羅は12(6)無の世界=陰の「肉体」を表しています。 
金剛界曼荼羅は9空の世界=陽の「精神」の世界を表しています。 
 
陰陽の二元論です。現在のコンピューターと同じ二進法です。 
般若心経も同じです。無(6)空(9)の世界です。 
 
(陰陽)は、混沌としたエネルギーが作り出すプロセスです。 
キッカケは太極です。太極とは極まって(エネルギー)新しいものを創り出します。 
 
般若心経では、「色即是空」「空即是色」で説明しています。 

色即是空とは、 すべては空である。あらゆる物事は、この流転の場の現象である。 
色は身体(肉体)空は魂(精神・心) 

空即是色とは、空が全てである。流転の場を離れて現象するものはない。 
よって、すべての事物は関係しながら変化(相互依存)し続ける。と、いうことです。 

  
色(肉体)=陰 
空(精神・心)=陽 
  
では、いよいよ本文を見ていきましょう。 
  
《般若心経 「本文」》 
  

摩訶般若波羅蜜多心経 
 
般若波羅蜜多瞑想理論と方法 
  
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時  
照見五蘊皆空 度一切苦厄
 

 
観自在菩薩が、深い般若波羅蜜多瞑想に入った時、五蘊は全て空(実体がない)と、見切りました。そして一切の苦厄から開放されたのです。 
    
舎利子 
色不異空 空不異色 
色即是空 空即是色 
受想行識亦復如是 
 

 
舎利子よ、 
形あるものの本質は無常です。無常な状態が、形あるものの本質です。この世に存在するものは陰陽転換から生じ、陰陽転換から生ずるものが、この世のものに他なりません。人間の感覚器官も陰陽転換運動により絶えず変化しています。 
 

舎利子  
是諸法空相 不生不滅 
不垢不浄 不増不減 
 
舎利子よ、 
それゆえ陰陽転換中の変化にあっては、生じる滅するという永遠性などないと感じ、 汚い綺麗という絶対性などないと感じ、増える減るという安定性などないことを感じるのです。 
  

是故空中無色 無受想行識  
無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 
無眼界乃至無意識界 無無明亦無無明尽 
乃至無老死亦無老死尽  
無苦集滅道 無智亦無得  
 
これ故、空の中にあっては物質はありません。精神作用も永遠不変なものではありません。眼、耳、鼻、舌、身体、心は、何ものにも反応することはなく。形も声も香りも味も触れる感覚や認識も縁起という法もありません。意識の世界も確かな主観は無い。無明、すなわち迷いは無いので消滅することも無い。老死も無いから老死が尽きることも無い。苦が発生するメカニズムも無い。知るもの得るものなど無い。得るべき何ものもありません。 
  
以無所得故 
菩提薩埵依 般若波羅蜜多故     
心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖      
遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 
三世諸仏    依般若波羅蜜多故得   
阿耨多羅三藐三菩提  
 
それゆえに、得るということがないから、菩薩達は、般若波羅蜜多瞑想を完成させることで、心を覆う煩悩が消え、心を覆う煩悩が消えることで、恐れもおののきも無くなり、全ての間違った想念から離れ、究極の悟りの世界に達することができるのです。過去、現在、未来に現れた数多くの仏も般若波羅蜜多瞑想を実践することにより、悟りの境地 に達するのです。 
 

故知般若波羅蜜多  
是大神呪 是大明呪 是無上呪  
是無等等呪 能除一切苦真実不虚  
 
故に般若波羅蜜多瞑想は、完璧なシステムであり、真理に到達できるシステムです。最上の瞑想システムであり、比類なきシステムです。全ての苦しみを根本から取り除いてくれます。 
  
故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰 
 

般若波羅蜜多瞑想のシステムをここに明かします。 
 

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦  
菩提薩婆訶 
 
苦 苦(繰り返すと執着により苦が増す) 
仏陀の智慧を導入する。智慧の気づき(僧)サティを入れます。羯諦の苦が無くなり、菩薩の境地に達しました。 
 

般若心経 
 
これが般若波羅蜜多瞑想の原理原則です。 
 
 私達は小本で、何故いきなり舎利子がニ回も出てくるのか意味がわかりません。 
短いお経の中で、人の名前が二回も出てくることは一見無駄に思えます。 

ところが、前段と後段を理解していますと、舎利子だけではなく、今ここにいる大勢の比丘や菩薩達、また私達に向かって大切な教えだから心して聞きなさい。と、観自在菩薩が質問者、舎利子だけではなく、私達に向かって教えを説いていると、いうことが理解できます。 
 
小学校の時、先生が「解りましたか」と、名指しで聞かれた経験はありませんか?、これは名指しされた人だけではなく、クラス全員に問うているのと同じことなのです。 
 
それでは次に呪文の詳しい説明に入ります。 

  

5.呪文の解読 

  

 「はじめに」で、書かさせていただいた呪文のひときわ目立つ一文字が、明らかになります。 

  

そして、般若波羅蜜多瞑想の鍵となるコード。それが理解できれば、ブッダの瞑想方法のシステムが霧が晴れるように姿を現してきます。 

  

まずは、呪文をじっくり眺めてみましょう。  

  

羯諦羯諦  波羅羯諦  

波羅僧羯諦  菩提薩婆訶 

  

気がつきましたか?読むのではなく観て感じてください。 

なんどもなんども集中して眺めていると観えてきます。 

  

一文字づつ数字を当てはめてみます。  

羯諦羯諦  波羅羯諦  

 1 2 1 2       3 4 1 2 

波羅僧羯諦  菩提薩婆訶 

  3 4 5 1 2          6 7 8 9 10    

と、なります。 

  

カナを振ります。 

羯諦羯諦  波羅羯諦 

1 2 1 2        3 4 1 2         

ヒフヒフ     ミヨヒフ       

波羅僧羯諦  菩提薩婆訶 

3 4 5 1 2          6 7 8 9 10 

ミヨイヒフ        ムナヤコト 

(これが陰陽転換法則です) 

  

般若心経の真言とされる「羯諦羯諦  波羅羯諦 波羅僧羯諦  菩提薩婆訶」は、十種類の漢字で構成されています。日本に古くから伝わる大和言葉にひふみ祝詞と、云われるものが有ります。上記の真言が十種類の漢字で構成されたのは偶然なのか意図的なのかはわかりませんが、ひふみ祝詞を紐解くと偶然にしては不思議な一致がみえてくるのです。 

  

*一二三祝詞 

古事記によれば、天照大神が雨の岩戸に隠れ、神々が天照大神を岩戸から出す為に、唱えたとされる言葉です。 

古代イスラエルの言葉に直すと、「美しい人よ出て来て下さい。」(新しい世界の誕生)と、いう意味です。 

このひふみ祝詞には様々な解釈があり、大宇宙の法則、自然の原理原則を表す。ともいわれています。 

  

日本の名前の由来は日の本、太陽がシンボルの国旗、それが日本です。 

人間の赤ん坊は十月十日に、この世に生まれ出ます。ひ〜とで、人になります。 

  

月の軌道や太陽による引力の関係で、身体もコントロールされています。 

太極拳的な考え方では陰陽転換による万物の生成原理とも考えられます。 

  

余談ですが、ひふみ祝詞をゆっくり数えますと、身体が緩み柔軟性が増すことが分かります。実感できますので、前屈をした状態でひふみ祝詞をゆっくり唱えてみてください。 

  

どうでしょうか?ここにひふみ祝詞の秘密を記しておきます。参考にして下さい。 

  

《ひふみ祝詞》 

ひ…日。太陽、一番大切なもの 

ふ…増。陰陽転換、二つに別れ新しく創造 

み…身。身体 

よ…世。世界 

い…命。息=命 

む…結。繋がり(瑜伽) 

な…成。天地自然、宇宙万物 

や…弥。弥栄。栄える、広がる。 

こ…心。心が全て思いが全て(唯識) 

と…止。ひ〜と「ひと」の完成(仏陀) 

  

言葉に魂が宿ることを「言霊」といいます。 

  

12を苦と仮定します。 

羯諦羯諦すなわち苦を消し去るには、34の波羅という要素を加えます。 

波羅羯諦とは、ブッダの瞑想システムの実施です。 

ここで一つの苦は消滅しています。羯諦が一つ消えていることに気がつきます。 

波羅僧羯諦より強力なサティ(気づきが発動)を行います。 

ブッダの智慧である波羅と羯諦の間に僧が入ります。 

菩提薩婆訶678910で完全に12の苦(羯諦)は消え去り、清らかな心に至ります。 

  

ブッダの智慧(波羅)も無くなり菩薩としての智慧、即ち自分の智慧として身につきます。 

  

真理はシンプルです。 

  

僧が般若心経に隠されたコードです。 

  

ブッダと観自在菩薩は、呪文を唱えていません。 

  

原始仏典のアーナパーナサティ・スッタ(安般守意経・安那般那念経)や、サティパッターナ・スッタ(四念処経)、最古の経典といわれるスッタニパータ(経集)やダンマ・パダ(法句経)等、どれをとってみても唱えれば苦が消滅すると、どこにも書いてありません。 

  

唱えていないのに、般若波羅蜜多心経で何故、呪文を唱えよと教えるのでしょうか? 

  

長いこと疑問に思っていました。 

  

呪文ではなくて、仏陀と観自在菩薩が実践した般若波羅蜜多瞑想の方法と理論を呪の中に組み入れたと考えたほうが自然です。 

  

それは、記憶に残りやすいように短い偈として書き残していたのです。 

  

しかし、私は般若波羅蜜多心経を唱えることは否定しません。「行」として唱えることは長い歴史の中で、その功徳が認められているからです。 

  

ケンブリッジ大学教授、シェルドレイクの「形態形成場仮説」のように、すでに般若波羅蜜多心経は千年以上も前から、多くの人々によって繰り返し唱えるられてきた行動パターンです。そして、唱えたことによって、苦境から脱出できた人、救われた人も多数あり、そういったパターン、場が形成されているからです。 

  

唱えることは、素晴らしいことなのです。そして、それはこれからも後世に般若波羅蜜多心経が伝えられていく手段でもあるわけです。 

  

皇帝太宗の想い、玄奘の考えは今もしっかり、この世界に根付いているのです。 

  

般若波羅蜜多心経は、人類がいる限り、永遠に口伝えで語り継がれていくことでしょう。仏陀亡き後、比丘や比丘尼達がそうしたように。 

   

6.基本となるブッダの教え 

   

無無明 亦無無明尽  
乃至無老死 亦無老死尽 

  

無明から老死までの「十二縁起」は無い。といっています。 
 
《十二縁起》 

無明(無智による誤った固定観念によって) 
行 (間違った行動や衝動が生じる) 
識 (識別・認識が生じる) 
名色(形のある物質と精神作用が生じる) 
六処(六つの感覚器官とその対象が生じる) 
触 (接触が起こる) 
受 (感覚が生じる) 
愛 (渇愛が生じる) 
取 (執着が生じる) 
有 (存在がある) 
生 (生まれる) 
老死(必ず老いて死ぬことになる) 
  

この十二縁起には、様々な解釈があります。が、ここではインドの偉大な僧である龍樹(ナーガル・ジュナ)にしたがって、無明から老死へ至る因果関係を説明していきたいと思います。これが、苦が起こる因果関係です。 
  
 まず、「根源的な無智」を持つ者(無明)は、その無智ゆえに様々な間違った「行為」をなし、その行為の結果が「意識」の上に残ります。その残った意識が来世の生をもたらします。 

行為の力は次の効果を発揮するまで意識の上に蓄えられます。そして、身体に「意識」が入ると体を構成する物質的・心的存在である「名称と形態」が形成されます。(過去に見たものの知識)そして「名称と形態」が形成されると、「知覚能力」が生じ、それに依存して「接触」が生じます。 

例えば、眼が対象を見るというのが接触に当たります。 

そして「接触」からは「感覚」が生じ、「欲望」(渇愛)が生じます。 
欲望が生じるのは、感覚を得たいと思うからです。言い換えれば求めて止まない心です。 

さらに「欲望」を持つと、それに「執着」が発生します。 
例えば、快楽を得たいという欲望が起こり、なんとしてでも得たい。と、思う執着心が生まれ苦が発生する。ということです。 

そして、先の蓄えられていた行為の力が「欲望」と「執着」から養分を得て、誕生の一歩手前の原因としての「存在」となるのです。それが外の世界へと誕生し、老死へと向かうのです。 
 
その死へと向かう間にも根源的無智に突き動かされて行為をなし、意識の上に行為の力を積んでいきます。 
それゆえ、死んだ後もその意識が次の生をもたらし(業)輪廻を巡ることになります。 
  

般若波羅蜜多瞑想で、この苦の発生する十二縁起を一端断ち切り、輪廻の輪から解脱することを目指します。 

 
これがあるから、それが起こる。これが起こるから、それが起こる。言い換えれば、これがなければ、それは起こらない。これが止まれば、それが止まる。全てに原因があり、原因が無くなれば結果も無くなるわけです。つまり、苦が生じるブロセスを逆転させればよいと、いうことになります。 
 
無知を根絶し、完全に消せば、反応が止滅する。 
反応が止滅すれば、意識が止滅する、意識が止滅すれば、心と物が止滅する、心と物が止滅すれば、六つの感覚器官が止滅する。 

六つの感覚器官が止滅すれば、接触が止滅する、接触が止滅すれば感覚が止滅する。 
感覚が止滅すれば、渇望と嫌悪が止滅する、渇望と嫌悪が止滅すれば、執着が止滅する。 
執着が止滅すれば生成のプロセスが止滅する、生成のプロセスが止滅すれば。 
誕生が止滅する、誕生が止滅すれば、老と死が止滅する、 

そして、嘆き、悲しみ、心と身体の苦しみ、諸々の苦難が止滅する。 
こうして、ありとあらゆる苦が止滅する。 
 
無知が無くなれば、盲目的な反応が止まり、それに続くあらゆる種類の苦が消えることになります。 

十二縁起は難解です。が、要は苦に至るプロセスの始まりである「無明」を無くせばよいとお考え下さい。 
  
《無苦集滅道》 

般若波羅蜜多瞑想を実践すると、苦集滅道は無くなる。といっています。 
苦が無くなれば、苦集滅道は不要です。 
 
《四聖諦》 

苦 (人生は苦しみである) 
集 (苦しみには原因がある) 
滅 (苦しみの原因を滅することができる) 
道 (苦しみ原因を消す方法がある) 

  

道(苦しみを消す方法とは、以下の八正道の実践です。) 
 
《八正道(道の具体的な方法)》 

1.正見…正しく観ずる。 
2.正思惟…正しく考え判断する。 
3.正語…妄語、両舌、悪口、綺語を避ける。 
4.正業…殺傷、盗み、性的逸脱行為しない。 
5.正命…正当な、なりわいを持って生活する。 
6.正精進…関心を持って努力し精進する。 
7.正念…今現在の内外の状況に気づく。 
8.正定…正しい集中力の完成をめざす。 
  

道徳的な規範のことをシーラと、いいます。 
シーラとは、正語・正業・正命です。 

般若波羅蜜多瞑想の第一段階が、サマディです。サマディには、正精進・正念・正定が該当します。 

続いて、般若波羅蜜多瞑想の智慧の完成として、般若(パンニャ)があります。パンニャは、正見・正思惟のことをいいます。 
  

天台宗では、それを止観瞑想という呼び方をします。 

サマディ(三昧・精神集中) 
止=サマタ瞑想 

パンニャ(般若・般若波羅蜜多瞑想) 
観=ヴィパッサナー瞑想 

  

時仏世尊即入三昧 
行深般若波羅蜜多時 

  

三昧(ざんまい)とは、サンスクリット語でサマディといい、一点集中のことをいいます。 
   

7.般若波羅蜜多瞑想の理論 

  

 般若波羅蜜多瞑想は、チベットや上座部仏教ではヴィパッサナー瞑想(気づきの瞑想)と、いわれています。 
ヴィパッサナーの意味は、対象に深く入り込み観察する。という意味です。 

  

以下に般若波羅蜜多瞑想のシステム、先程の呪文を当てはめて、具体的に説明致します。 

  

私達の心は、五感による受容器官を通じて接触し反応を繰り返します。 

五感とは、眼耳鼻舌身です。 

  

「サティ」とは、気づきのことをいいます。 
色受想行識は般若心経にでてきました。 
色とは我々の身体とか物質のことで、他の受想行識は我々の精神作用のことです。 

  

色…眼耳鼻舌身で対象物と接触します。 
↓*羯諦羯諦 無明による接触 
受…無明による受領 
↓*波羅羯諦 
想…想い サティ(僧) 
↓*波羅僧羯諦 
行…行動 
↓*菩提薩婆訶 
識…知識(智慧の蓄積) 

  
バナナを例にして見てみます。 
 
色…目で見る「なにかある」と、気がつく 
受…黄色い・長い 
想…見たことがある 
行…あれかなぁ~ 
識…バナナだ食べよう 

  

上のバナナの例では、想で「見た」と気づきの言葉(サティ)を入れて、今を意識します。 

  

「見た」…ただそれだけで判断はしません。 
「おいしそう」とかいう判断はしてはいけません。 

  

そしてまた、何事もなかったように般若波羅蜜多瞑想に戻ります。 

すると・・・行の反応は消え、識まで至ることはありません。(あれかなぁ~と、考えない)ので無駄な反応をしなくて済みます。 

  

バナナを、様々な苦の対象に置き換えても同じ現象が起きます。 

サティ(気づき)を入れると・・・執着が起こることはありません。自我を捨て去ることになるからです。 

  

言葉で確認することにより、キッパリ終わらせるのです。無駄な反応はしないようにします。 

  

僧の文字は・・・皆さん、禅寺で座禅を組んだことはありますか? 

経験がなくても座禅を組むと、後ろに警策を持って回っているお坊さんがいることは知ってますよね。 

  

警策で打たれると、身体を自覚します。身体を自覚すると妄想が止まります。そう、今に帰ると、いうことです。 

ですから、仏界定印の両手の親指が離れていたり、上半身が前のめりになっていますと、警策棒でパンパンと、叩かれるわけです。 

  

ごく短い一刹那だけ心は動揺し、サティを入れると、次の瞬間には終了を意味します。 

瞑想とは、起きたことを起きたこととして、その事実だけを確認する作業です。 

これが無執着の心を育てていきます。 

  

サティは思考モードへ移行せず、対象化していく技術なのです。 

  

既有知識(スキーマ)は、個人個人の独自の認知システムです。 
 

この違いが、個人個人の洞察力の違いです。 

スキーマが働く前に、サティを入れることは、あるがままに観る。と、いうことになります。 

  

瞑想の経典、サティパッターナ・スッタ(四念処経)では、五蘊は執着の5つの集合体と定義しています。 
 

この五蘊が、人間の営みの全てです。 

四念処とは、身体、感覚、心、心の対象を、入念に観察する瞑想方法をいいます。 

それは一瞬で行われます。 

それは無意識に行われ、繰り返されると執着が発生します。 

  

天台宗の天台止観では色受想行識は一刹那(0.01秒)と、されています。 

刹那消滅・生起の連続中に、想でサティの気づきの技術(ラベリング)をします。 
言葉の確認をするということです。 

これが般若波羅蜜多瞑想の理論です。 

  

呪文の波羅僧羯諦の僧は五蘊の想に値します。 
僧は警策を打つことにより瞑想者を身体に気づかせる(サティ)のです。そして自覚することにより妄想が止まります。 
妄想を止める、すなわち反応をさせないと、いうことです。 

  

これが般若心経の呪文に落とし込まれたシステムです。 

   

8.般若波羅蜜多瞑想の実践 

  

般若波羅蜜多瞑想の具体的なやり方 
  

《座禅》 

座禅の仕方 
1.背筋が真っ直ぐに、重い頭を楽に支える為に、結跏趺坐、半跏趺坐、達人座、正座、胡座など楽な姿勢で行う。 
ちなみにブッダの座法は半跏趺坐が多い。 

2.手は法界定印、もしくは、白隠結びを組みます。チンムドラーでも良いですし、両手を胸の前で合わせ合掌するのも良いかと思います。一番しっくりくる方法でOKです。 

法界定印・・・手のひらを上に向けて、指を閉じ左手の指の上に右手の指を乗せて、左右の親指だけ立てて先端を軽く接触させます。 
白隠結び・・・左手の親指を右て全体で包みその右手を左手で包みます。 

(白隠禅師・・・江戸時代の臨済宗の禅僧1686~1769) 
チンムドラーは後程説明いたします。 
 
a.三昧、行深に達するまで般若波羅蜜多心経を唱えても良い。(声を出す必要はありません) 

b.呼吸に集中する 
*鼻の穴に空気が入る感覚、出る感覚を内視する。若しくは、お腹の膨らみ縮みを実況中継しても良い。 
 
*雑念が湧いた場合 
1.気づきのサティを入れます。 
例えば、右手が痒くなったら「右手が痒い」とラベリングします。その後「戻ります」とラベリングしてから元の呼吸瞑想に戻ります。この繰り返しが重要です。 

  

《歩行瞑想(経行きんひん)》 

歩行瞑想は、歩くという体験に意識的に注意を向けるトレーニングです。 

*ゆっくりスローモーションで歩きます。 
1.足の裏に集中する。 
2.呼吸と歩数を合わせる。 
3.叉手(しゃしゅ) 
左手の親指を中心にして握り、手の甲を外に向けて右手のひらを重ねて、腕は水平にみぞおちのあたりに構える。 
足裏の感覚に集中する。目は2~3メートル先の下を見ます。 

ラベリングの仕方 
a.「右」「左」 
b.「離れた」「着いた」 
c.「離れた」「移動」「着いた」 
d.「離れた」「移動」「接触」「圧」 
 
*雑念が湧いた場合 
立ち止まり、サティを入れてラベリングします。その後は、またゆっくり歩き始めます。 
注意点として、掛け声にならないようにしてください。行為が先でラベリングが後です。 
 
《立つ瞑想》 

両足を肩幅に開き自然と立ちます。 
足の裏の感覚の変化を観ます。 
踵に集中し感覚を確認する。 
1.「圧」「右」「中央」「左」とラベリングします。 
 
*雑念が湧いた場合は、座禅瞑想と同じ要領です。 
 
*太極拳では立禅で膝を緩め、両手で大きな木を抱き抱えるようにします。中心軸は両手の円の中心にあります。呼吸に集中し小周天で氣を任脈、督脈を巡らせます。より高度なマインドフルネスといえるでしょう。 
  

 
《日常生活の瞑想》 

無明状態だと、事実と考え事がごちゃまぜになった混乱状態です。 
例えば、綺麗な夕日を見ている時に、スマホで写真を撮り、ラインでメールする行為などは無明状態に該当します。 
すると夕日はそっちのけで、ラインの返信に目をやったり、メールをチェックしたり、そして最悪煩悩が発生します。 
人生の苦しみをなくすためには、純粋な事実だけを正しく観る訓練が必要です。 
日常モードでは、自分は今何をしているかに気づくことが重要です。 
 
1.日常生活の般若波羅蜜多瞑想 
・私は今、綺麗な夕日を見ている 
・私は今、掃除している 
・私は今、歩いている 
・私は今、作業(パソコンを)している 
・私は今、排便している 
*言葉で確かめる習慣をつけることにより無駄な反応はしなくなります。 
 
大雑把で、今何をしているのかに気づくことが重要です。 
戻るところはないので、上記のようにランダムにサティを入れていきます。 
 
《慈悲の瞑想》 

1.「生きとし生けるものが幸せでありますように」 
2.「生きとし生けるものの悩み苦しみが無くなりますように」 
3.「生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように」 
4.「生きとし生けるものに悟りの光が現れますように」 
5. 最後に1の真言を3回繰り返す。 

時間がない時は、5.のみで充分です。心から願うことが重要です。 
 
生きとし生けるもののところを、私、大切な人、嫌いな人等に読み替えても良い。 
 
無差別平等にみる公平さ(ウベッカー)は、心を成長させ最高のサティへと導きます。 
捨の心を育てることにより、般若波羅蜜多瞑想の技術を向上させます。 
 
【慈悲喜捨】 
慈…相手の幸せを願う。 
悲…相手の悲しみを理解する。 
喜…相手の喜びを理解する。 
捨…「中道心」自分を捨てる、無駄な反応はしない。 
  
《食事瞑想》 

食事に集中します。 
食材一つ一つの違いに気づく。 
箸で、ご飯を一口取ります。お米を観察します。初めて見たような感覚で、しっかりありのまま観察します。 
口に入れて、ゆっくり味わいます。 
一口噛むごとに、お米の甘さや歯の感触や舌の感触、喉を通る感触や胃に落ちる感触をしっかり内観していきます。 
食べ終わるまで続ける必要はなく、最初の一口だけでも大丈夫です。 

ダイエットにも効果的です。 
  
《ボディースキャン瞑想》 

ボディー・スキャンは横になって、体の各部位に注意して、集中しスキャンしながら、観察する方法です。 
感覚(意念)で、身体部位を観ていきます。寝る前が効果的です。 
左足から右足、お腹や両手、頭と、今度はその逆から観ていきます。 
シャバ・アーサナ(仰向けに寝ます。両足は肩幅より少し広めに開きます。両手は胴体から少し離れたところに手のひらを上に向けて自然な感じで力を抜きます。)仰向けが望ましいですが、鼻が詰まりやすい方は横になっても構いません。 

呼吸瞑想で一体感を感じる。(全身で呼吸する感じです。足の裏、手のひら、頭の天辺等から息を吸ったり吐いたりと、イメージしながら集中します。) 

身体の中の臓器を内視していきます。そして各臓器に感謝します。 
「今日も一日ありがとうございました。また明日も宜しくお願い致します。」と、心臓、肝臓、胃、腎臓、膵臓、腸など、全ての臓器に感謝します。 

チャクラ(パワースポット)や経穴を観ていく方法や小周天・大周天で氣を全身に巡らせる方法も全身をリラックスさせるのに有効です。 
 
「ヨーガ」では姿勢・動作に伴う感覚を内視していきます。例えば、脚のハムストリングスを柔らかくする為には、前にある大腿二頭筋とセットで伸ばしていきます。 
 
筋肉の伸張反射を利用するわけです。ハムストリングスを柔らかく伸ばす為には、前にある大腿二頭筋を縮めれば効率的に伸ばすことができます。 
 
アーサナでいえば、英雄のポーズと三角のポーズの組み合わせです。太陽礼拝や月礼拝は我々の身体に適ったアーサナの組み合わせなのです。これも古のヨーギ、ヨギーニ達の身体を観察する、ボディースキャンの智慧の賜物なのです。 
 

【洞察力を磨くヴィパッサナー瞑想】 

呼吸瞑想で集中力を向上させることや、サティを入れて元に戻る技術の修得は、ヴィパッサナー瞑想に必要不可欠な要素です。 

そしてパンニャ(般若)の智慧の獲得を目指します。 
 
呼吸瞑想は三昧までのレベルですが、ヴィパッサナー瞑想の場合は智慧の獲得にあります。 

  

《具体的な方法》 

雑念の仕分けをする。 
・貪・瞋・痴(トン・シン・チ) 

仏教では人間のもつ根元的な3つの悪徳のことをいいます。 
自分の好むものをむさぼり求める貪欲。 
自分の嫌いなものを憎み嫌悪する瞋恚。 
自分が的確な判断が下せずに、惑う愚痴。 
人を毒するから、三毒と言います。 

  
【サティ(僧)のテクニック】 

・三毒(トン・ジ
「冷静に考えれば、私には必要ない」 
2.瞋恚(しんい) 
「そういう考え方も、あるよね」 
3.愚痴(ぐち) 
「これも修行のうち、いつかは悟る」 
心の中で唱えることにより、執着を避け終了させます。 
この魔法の言葉を心の中で唱えれば、苦は消えます。 

(例) 
1.オートバイが欲しい、欲しい(貪欲)・・・「冷静に考えれば、私には必要ないよね」 
2.自分は左と思うが、相手は右だと怒り狂う・「そういう考え方も、あるよね」 
3.上司に何度も怒られる。女性社員の愚痴・・「これも修行のうち、いつかは悟るよね」 
 
その前に、自分の心は今どういう状態なのか知ることが重要です。 

  
ちなみに、手の結び方でチンムドラーでも良い。と、お伝えしましたが、チンムドラーの意味は親指が宇宙(梵)で、人差し指が自分(我)です。親指と人差し指の先端をくっつけて、輪を作ります。これが「梵我一如」を表し、宇宙と私が一つになる誓いです。 
中指と薬指、小指の三つの指は、自然と離します。 
これが、三毒のトン・シン・チです。 
中指が貧(トン)薬指が瞋(シン)小指が痴(チ)と、いうことです。 
親指と人差し指で、陰陽転換を表し三毒を追放し、新しい境地を作り出すという意味です。 
 
洞察力の向上には、自分の内なる現実を見つめて、自分の感覚を客観的に観ていくことが必要です。(自己観察) 

身体の感覚は心と強く結びついています。 
心の状態がそのまま身体の感覚となって現れることは、経験上ご存知でしょう。 

身体の感覚=心の感覚です。 

自然な身体の感覚を、淡々と観察することです。 

感覚の原因は、重要ではありません。 
意識を合わせたところの感覚に、焦点を合わせていきます。 
意識で身体の隅々まで、順序よく観ていきます。 

客観的に観て感じていくと、無常を身体で理解できます。 

私達の身体や心は、常では無いことが理解できます。このことを諸行無常といいます。 
 
感覚が変化する。それは、私の身体だけではなく、私を取り巻く世界すべて、宇宙全てが変化していることに気が付きます。そして、自分自身の身体感覚が自分とは別の物としての感覚を得るに至ります。 

般若波羅蜜多瞑想から得られる境地を般若心経ではこういっています。 
  

遠離一切顛倒夢想  
究竟涅槃 
阿耨多羅三藐三菩提 

全ての間違った想念から離れ   
究極の悟りの世界に達することができるのです。そして悟りの境地 に達するのです。 
 
プロセスの集合体、絶えず一瞬一瞬変化することを無我と、いいます。 

執着すると、苦しむのが分かるでしょう。 
変化の中にあって固定化させる訳ですから。 
ヴィパッサナー瞑想で体験することは、理屈抜きにそのことを理解することです。 

仏教とは、この体得することを主眼としています。 
  
全ての現象を淡々と観ていく。 
痛み、痒み、しびれなど身体における全ての現象を客観的に観察します。 
消えるまでありのまま観察します。 
  
《まとめ》 

感覚が生じるところで気づきを入れる。 
僧(サティ=ラベリング) 
僧の持つ警策で叩かれ、我に返る瞬間を思い出して下さい。 
感覚は無常で絶えず変化する。すると、真の洞察力が生まれます。 
因果の連鎖を止める。 
良し悪しの判断はしない。 
苦の原因は心の反応、反応を止める 

 
《サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想の違い》 

サマタ瞑想…一点集中(止) 
ヴィパッサナー瞑想…自己観察(観) 

(補足説明) 

サマタ瞑想は、例えば…電気を溜め込んでいく乾電池。あくまでも充電するだけです。雑念はそれを妨げるのでサティ(ラベリング)で除き、より効率的に電気(集中力)を充電していきます。フル充電に近づいた状態がサマディ(三昧)です。 

ヴィパッサナー瞑想では、その乾電池を電化製品に入れて作動させます。充電したエネルギー(集中力)を使うことで、身体を部分部分(痛みのあるところ、かゆいところ、手とか足とか、ある部分の筋肉とか、頭中とか、今自分は何を考えているか…とかを内観しながらあるがままに観察していきます。雑念が湧いたらサマタ瞑想と同じでサティ(ラベリング)して元に戻ります。 

例えば、ウォークマン。電池が切れたウォークマンをコンセントに差して充電している状態をサマタ瞑想で、充電が終わり…ウォークマンのスイッチを入れて音楽を聞くことがヴィパッサナー瞑想です。 

カミナリとか、沢山の電化製品を使いすぎると…ブレーカーが飛んで停電します。これが、雑念。もう一度ブレーカーのスイッチを戻すことをサティ(ラベリング)です。 

サマタ瞑想は、何か対象となる1点に意識を集中するのに対して、ヴィパッサナー瞑想は集中し変化を観ていきます。身体の変化、感覚、感情、思考等を内観していきます。今この瞬間にどのように変化していくかをあるがまま観ていきます。 

    

ダライ・ラマは言います。 
「ただ闇雲に般若心経を唱えてはダメです。 
意味を理解し、実践してこそ心の悟りがあるのです。」 
 
現実は無常であり、絶え間なく変動を繰り返す連続体であります。 
 
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」 
(鴨長明「方丈記」) 
 
河の流れの中にある水と粒子が複雑に相互に作用し合い、次の瞬間には、新しい流れが作られています。 

この現象は無数に絡み合う因果関係の中で、河の流れは悠久の変化にさらされています。 
 
私たちの認知のあり方もまた無常です。個々の物のもつ状態、価値、意味は、何一つ変わっていないように見えても、実のところ絶えず置き変わっています。 
 
複雑に絡み合い、しかも連綿と続く因果関係のもとで、あらゆる存在が形をなしては消えていきます。 
 
「淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」 
(鴨長明「方丈記」) 
 
この絶えず変わり続ける現実において、私たちの認知のあり方も変わり続けています。 
 
一切の錯覚から目覚め、思い込みによる束縛から解放されれば、淡々とした日常生活が送れるようになるのです。 
 

9.禅とマインドフルネス 

  

《禅とマインドフルネス》 

   

マインドフルネスのルーツである禅は、修行を通じてブッダが到達した悟りの境地に近づくことです。 

マインドフルネスは「瞑想」のことではなく、「ただ目の前のことに集中する状態」のことをいいます。 

  

ですから悟ることではなく、毎日の暮らしの中にある一つ一つの作業を丁寧に行い、その瞬間を大切にすること、その積み重ねがその人の豊かで幸せな「人生」を形成していきます。 

それを目標にしています。 

  

1.マインドフルネスのメカニズム 

私たちの行動は脳のSN(セイリエンス・ネットワーク)を通じて入ってきた情報に合わせて、脳の各部と結合して活動しエネルギーが消費されます。 

  

心ここにあらずの状態をマインドワンダリングと、いいます。 

脳のDMN(デフォルトモード・ネットワーク)が活性している状態です。 

それは過剰なエネルギーが消費され、様々な病気や疲労を誘発します。 

  

集中状態のことをマインドフルネスと、いいます。 

脳のCEN(セントラルエクゼクティブ・ネットワーク)が活性され、集中力や創造性の向上、心の健康増大のメリットがあります。 

 2.マインドフルネスの効果 

a.CENを担う脳の部分が活性化する。 

b.SNを担う脳の部分が活性化する。 

c.CENとSNの結合が高まる。 

d.DMNを担う脳の部位の活動が低下する。 

e.海馬(記憶と感情を司る部位)が大きくなる。 

f.偏桃体(不安や恐怖に反応する部位)が小さくなる。 

g.右脳が活性化する。 

  

上記脳の変化(脳の可塑性)により以下のことが結論付けられます。 

1.集中状態はCENが活性化することで、処理能力アップ、仕事が早くなります。 

2.SNは、外からの刺激に対して、脳内のどのネットワークを使って対処するか指示をする司令官でここが優秀になると、不測の事態に適切に対応できるようになります。 

3.DMNは、脳のエネルギーを大量に消費します。DMNの活動が下がることにより脳が疲れにくくなります。 

4.海馬は短期的な記憶を司っています。ここが増大することにより、記憶力がよくなります。 

5.不安や恐怖を感じる偏桃体が小さくなることにより、トラブルにも落ち着いて対応できるようになり、ストレス耐性が高まります。 

6.右脳部分が活性化することにより、人への気配りや優しさがUPします。 

  

《実践方法とその奥義》 

マインドフルネス呼吸瞑想技法 

1.FA(フォーカス・アテンション) 

一つのことに意識を向けて集中する状態。 

2.OM(オープン・モニタリング) 

一つにことに集中しながら、周りの事も見えている状態。 

  

*テーラワーダ仏教(上座部仏教)では、FAのことをサマタ瞑想、OMのことをヴィパッサナー瞑想と呼びます。 

FA=サマタ瞑想(一点に集中すること) 

OM=ヴィパッサナー瞑想(自分自身をあるがまま観察すること) 

  

*五感 眼耳鼻舌身の五感が鋭くなり、現実に対する解象度と鮮明度があがります。マインドフルネスではこのことを、アウェアネス(気づいている状態)といいます。アウェアネスが高まると、人は周囲の状況をすべてありのままに認識できるようになります。 

  

人間のパフォーマンスを向上させるポテンシャルアップはフロー状態の時に達成されます。所謂「火事場の馬鹿力」です。 

  

仏教ではそれを「無我の境地」と表現し、道元は「心身脱落」という言葉で表現しています。 

  

《災難の回避》 

FA(一点集中瞑想・サマタ瞑想)により集中力が高まり、一般の人間よりもOM(アウェアネス・ヴィパッサナー瞑想)が向上しているので、周りの異変に気がつきやすくなります。 

  

このことは、私が太極拳クラブで常日頃から「御嶽山の悲劇、命を落とさない分類の人間に入る」ことを強調している通りです。太極拳、氣功、ヨーガにマインドフルネスが加われば、その確率は著しく高くなります。 

  

《禅とマインドフルネスの違い》 

マインドフルネスの目的は解脱・悟りではなく、よりよく生きること、よりよく幸せになることを目指しています。 

  

禅の世界では20年~30年と修行を重ねて、解脱・悟りに至ることを目標にしていますが、マインドフルネスは宗教色を抜くことにより、よりよい幸せな人生の獲得を目指しています。 

  

それは、求めるモノではなく、来るものです。ですからエゴの発生する余地はありません。 

  

悟りたい・・・とか、解脱したい・・・とか、求めるものではないのです。 

ここに、禅とマインドフルネスの違いがあります。 

   

10.あとがき 

  

 私の家の近くには、愛知と岐阜の県境に一級河川の木曽川が、東から西へと流れています。 
 

その悠久なる時の迫力に満ちた木曽川を、橋の上から一人眺めていますと、いつも鴨長明・方丈記の一節を思い出します。 

  

「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」 

  

我々、人間の身体を無常と説いたブッダ。 

人間の身体を極小になるまで観ていくと、 

身体は微粒子と空っぽの空間の流れ、微粒子は絶えず生まれては消える。身体は常に変化する。これを無常、常に変化を繰り返すのが万物全ての定めと見抜いたのでした。 

  

現代科学の証明は、この世は波動の流れと結論づけました。やっとブッダの考えに追いついたことになります。 

  

川の流れは私達の身体と同じ。一瞬一瞬、違う水の流れが目の前で繰り返えされます。 

また、ロウソクの炎も燃えては消え、燃えては消え、コマ送りの絵のように連続した変化の現れです。 

  

私が指導しています太極拳は老子の武道といわれ、身を持って陰陽の転換運動を、水が上から下へ自然と流れていくように、変化し感じ「道」のシステムに身を委ね、今ココに意識を置きます。 

そうマインドフルネスそのものです。 

  

太極拳が動く禅と、いわれるのはこの理由によります。 

  

皆さんが少しでも般若心経に興味を持っていただき、般若波羅蜜多瞑想を実践し、悩みや苦しみから逃れ、これからの人生をより豊かに幸せに暮らせますよう心から願って筆を置きます。 

ブッダが耳元で囁きます。 
「清らかな心で、魂を向上させなさい。色即是空 空即是色 

私の心はあなたの心、あなたの心は私の心。 」

 

11.参考図書 

  

中村 元・紀野一義 
般若心経・金剛般若経 岩波文庫 

  

中村 元 

仏教のこころ  

「仏教の真髄」を語る 麗澤大学出版会 

  

五木寛之 
21世紀 仏教の旅 インド編上下  
21世紀 仏教の旅 中国編 
21世紀 仏教の旅 日本・アメリカ編 

講談社 

  

苫米地英人   
一生幸せになる超訳般若心経Gakken 

  

荒 了寛・苫米地英人   
悟りの教科書 集英社インターナショナル 

  

割田剛雄  般若心経 パイ インターナショナル 

  

角田泰隆・金岡秀郎・名児耶明 般若心経 平凡社 

  

高田明和   
幸せを生む魔法 春秋社 

  

大谷幸三・菊池和男  
ダライ・ラマが語る般若心経 春秋社 

  

ダライ・ラマ14世テンジン・ギャツォ 
ダライ・ラマ般若心経入門 春秋社 

  

テック・ナット・ハン   
般若心経 

ブッダの〈呼吸〉の瞑想 

ブッダの〈気づき〉の瞑想 

ブッダの〈今を生きる〉瞑想 野草社 

  

玄奘   
西域記 小学館 

  

佐々木閑   
ゴータマはいかにしてブッダになったか NS NHK出版新書 

  

川野泰周 

心と身体の正しい休め方 ディスカヴァー 

  

草薙龍瞬   
反応しない練習 
これも修行のうち kKADOKAWA 

  

ウィリアム・ハート   
ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 春秋社 

  

雲井昭善   
万人に語りかけるブッダ「スッタニパータ」を読む NHNライブラリー 

  

藤倉啓次郎   
般若心経を解く たま出版 

  

熊野宏昭 

実践!マインドフルネスDVD サンガ 

  

地橋秀雄 

実践ブッダの瞑想法 春秋社 

  

マハーシ・サヤドー 

ヴィパッサナー瞑想 入門・上級 サンガ 

  

  

12.付録 般若心経小本 

 (英語・漢語・日本語) 

   

Heart Sutra 

魔訶 般若波羅蜜多心経  

般若波羅蜜多瞑想理論と方法 

  

Avalokiteshvara Bodhisattva, when practicing deeply the prajna paramita, perceived that all five skandhas in their own being are empty, and was saved from all suffering.   

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄  

観自在菩薩が 深い般若波羅蜜多瞑想に入った時、五蘊は全て空(実体がない)と、見切りました。 

そして一切の苦厄から開放されたのです。 

  

Shariputra, form does not differ from emptiness, emptiness does not differ from form; that which is form is emptiness, that which is emptiness form. The same is true of feelings, perceptions, formations, consciousness.  

舎利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識亦復如是 

舎利子よ、 

形あるものの本質は無常です。無常な状態が、形あるものの本質です。この世に存在するものは陰陽転換から生じ、 

陰陽転換から生ずるものが、この世のものに他なりません。人間の感覚器官も陰陽転換運動により絶えず変化しています。  

  

Shariputra, all dharmas are marked with emptiness: they do not appear nor disappear, are not tainted nor pure, do not increase nor decrease. 

舎利子 是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減 

舎利子よ、 

それゆえ陰陽転換中の変化にあっては、生じる滅するという永遠性などないと感じ、 汚い綺麗という絶対性などないと感じ、増える減るという安定性などないことを感じるのです。 

  

Therefore in emptiness, no form, no feelings, no perceptions, no formations, no consciousness; no eyes, no ears, no nose, no tongue, no body, no mind, no color, no realm of eyes, until no realm of mind-consciousness; no ignorance, and also no extinction of it, until no old-age and death, and also no extinction of it; no suffering, no origination, no stopping, no path, no cognition, also no attainment.  

是故空中 無色無受想行識 無眼耳鼻舌身意 無色声香味触法 無限界乃至無意識界 無無明亦無無明尽 乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得 

これ故、空の中にあっては物質はありません。精神作用も永遠不変なものではありません。眼、耳、鼻、舌、身体、心は、何ものにも反応することはなく。形も声も香りも味も触れる感覚や認識も縁起という法もありません。意識の世界も確かな主観は無い。無明、すなわち迷いは無いので消滅することも無い。老死も無いから老死が尽きることも無い。苦が発生するメカニズムも無い。知るもの得るものなど無い。得るべき何ものもありません。 

  

With nothing to attain, a Bodhisattva depends on prajna paramita and the mind is no hindrance. Without any hindrance, no fears exist. Far apart from every perverted view one dwells in nirvana. In the three worlds all Buddhas depend on prajna paramita and attain unsurpassed complete perfect enlightenment. 

 以無所得故 菩提薩埵依 般若波羅蜜多故 心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 三世諸仏 依般若波羅蜜多故得 阿耨多羅三藐三菩提  

  れゆえに、得るということがないから、菩薩達は、般若波羅蜜多瞑想を完成させることで、心を覆う煩悩が消え、心を覆う煩悩が消えることで、恐れもおののきも無くなり、全ての間違った想念から離れ、究極の悟りの世界に達することがでるのです。過去、現在、未来に現れた数多くの仏も般若波羅蜜多瞑想を実践することにより、悟りの境地 に達するのです。 

  

Therefore, know the prajna paramita is the great transcendent mantra, is the great bright mantra, is the utmost mantra, is the supreme mantra, which is able to relieve all suffering and is true not false. 

故知般若波羅蜜多 是大神呪 是大明呪 是無上呪 是無等等呪 能除一切苦 真実不虚  

故に般若波羅蜜多瞑想は、完璧なシステムであり、真理に到達できるシステムです。最上の瞑想システムであり、比類なきシステムです。全ての苦しみを根本から取り除いてくれます。 

  

So, proclaim the prajna paramita mantra, proclaim the mantra that says,  

故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰   

般若波羅蜜多瞑想のシステムをここに明かす。 

  

Gate, gate, paragate, parasamgate! Bodhi! Svaha 

羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 

苦 苦(繰り返すと執着により苦が増す) 

仏陀の智慧を導入する。智慧の気づき(僧)サティを入れます。羯諦の苦が無くなり、菩薩の境地に達しました。 

  

     

  《読み方》 

  

摩訶般若波羅蜜多心経 

まかはんにゃはらみたしんぎょう 

  

観自在菩薩  

かんじんざいぼさつ  

  

行深般若波羅蜜多時  

ぎょうじんはんにゃはらみたじ 

  

照見五蘊皆空 

しゃうけんごうんかいくう 

  

度一切苦厄 舎利子 

どいっさいくやく しゃりし 

  

色不異空 空不異色 

しきふいくう くうふいしき 

  

色即是空 空即是色 

しきそくぜくう くうそくぜしき   

  

受想行識亦復如是  

じゅうそうぎょうしきやくぶにょぜ 

  

舎利子 是諸法空相 

しゃりし ぜっしょほうくうそう 

  

不生不滅 不垢不浄 

ふしょうふめつ ふくふじょう 

  

不増不減 

ふぞうふぜん  

  

是故空中無色 

ぜこくうちゅうむしき 

  

無受想行識  

むじゅそうぎょうしき 

  

無眼耳鼻舌身意  

むげんにびぜっしんに 

  

無色声香味触法 

むしきしょうこうみそくほう 

  

無眼界乃至無意識 

むげんかいないしむいしきかい 

  

無無明 亦無無明尽 

むむみょう やくむむみょうじん 

  

乃至無老死  

ないしむろうし 

  

亦無老死尽  

やくむろうしんじん 

  

無苦集滅道 

むくしゅうめつどう 

  

無智亦無得 

むちやくむとく  

  

以無所得故 

いむしょうとくこ  

  

菩提薩埵依  

ぼだいさったえ 

  

般若波羅蜜多故  

はんなゃはらみたこ   

  

心無罣礙 無罣礙故 

しんむけげ むけげこ     

  

無有恐怖  

むうくうふ   

  

遠離一切顛倒夢想  

おんりいっさいてんどうむそう  

  

究竟涅槃 

くぎょうねはん  

  

三世諸仏    

さんぜしょぶつ 

      

依般若波羅蜜多故得  

えはんにゃはらみたことく 

  

阿耨多羅三藐三菩提 

あのくたらさんびゃくさんぼうだい 

  

故知般若波羅蜜多  

こちはんにゃはらみた 

  

是大神呪 

ぜいだいじんしゅ     

  

是大明呪  

ぜいだいみょうしゅ       

  

是無上呪  

ぜいむうじょうしゅ     

  

是無等等呪  

ぜいむとうどうしゅ  

  

能除一切苦真実不虚    

のうじょういっさいくしんじつふっこ 

  

故説般若波羅蜜多呪 即説呪曰  

こうせつはんにゃはらみたしゅそくせつしゅうわつ 

  

羯諦 羯諦 

ぎゃてぃ ぎゃてぃ 

  

波羅羯諦 

はらぎゃてい  

  

波羅僧羯諦  

はらそうぎゃてい 

  

菩提薩婆訶 

ぼじそわか  

  

般若心経 

はんにゃしんぎょう 

 

《唯識三十頌・ヨーガチャーラブーミ 》

  

インド大乗仏教の論書であり、唯識派の基本的な経典です。 

原題はサンスクリット語で《ヨーガチャーラブーミYogacārabhūmi》略称《瑜伽論》。 

著者はマイトレーヤ(弥勒)、チベット語訳はアサンガ(無著)。4世紀ごろに成立しました。 

サンスクリット語原典のほか、チベット語訳、漢訳(玄奘三蔵の全訳)が現存しています。 

漢訳で全100巻の膨大なもので、全体は五分され、本地分(1~50巻)、摂決択分(51~80巻)、摂釈分(81・82巻)、摂異門分(82~84巻)、摂事分(85~100巻)からなります。この100巻の要約をヴァスバンドウゥ(世親)が30の頌にまとめたものが唯識三十頌(ゆいしきさんじゅうじゅ)です。この30が理解出来れば、唯識が理解できる。といわれています。 

唯識三十頌が瑜伽唯識仏教の一つの双璧なら、もう一つの双璧がアサンガ(無著)が現した摂大乗論があります。 

マイトレーヤ(弥勒)→アサンガ(無著)→ヴァスバンドゥ(世親)→玄奘(三蔵法師) 

※無著と世親は兄弟です。無著が兄で世親が弟。 

  

摂大乗論は玄奘三蔵が命を懸けて天竺へ旅立つキッカケを作った瑜伽唯識仏教の経典です。 

玄奘三蔵は、真諦より摂大乗論を学んでいます。それでも学び足りないところ、特に下記全体像の太文字部分は摂大乗論には書かれていません。所謂、修行の段階を示した部分です。ココが玄奘三蔵が命を懸けてまでも知りたかった部分です。 

赤文字はサンスクリット語で、漢訳は玄奘三蔵です。世親の原典を五字一句・四句一頌でまとめあげました。650年頃のことです。また、唯識三十頌の解釈をまとめ上げ「成唯識論」を完成させました。現在、成唯識論は日本の法相宗の経典となっています。 

 

この思想が、玄奘が欲していた思想で、命を懸けてまでインドへ旅立つ決断をさせた人類史上最上に位置する思想です。ヨーガ・チャーラブーミの要点が書かれた唯識思想の中心を以下にみていきましょう。

 

唯識三十頌全体像 

  

はじめに(帰敬の頌) 


 章の部分的概略(全体像)

1.2・・・すべては唯識(定義) 

3.4・・・第八阿頼耶識 

5.6.7・・・第七末那識 

8.9.15.16・・・第六意識と前五識 

10.11・・・善とは 

12.13.14・・・煩悩とは 

17・・・すべては唯識の明示 

18.19・・・阿頼耶識の深い説明 

20・・・遍計所執性の世界 

21.22・・・依他起性・円成実性の世界 

23.24.25・・・上記三性の在り方 

26・・・唯識修行の第一行程 資糧位 

27・・・唯識修行の第二行程 加行位 

28・・・唯識修行の第三行程 通達位 

29・・・唯識修行の第四行程 修習位 

30・・・唯識修行の第五行程 究竟位 

おわりに(結びの頌) 

  

唯識仏教は枝葉に迷う混んでしまうと、何が何だか分からなくなってしまいます。 

まずは、全体像をつかみましょう。専門用語が多く意味が解らなくても漢字を一つづつ見ていくことにより、おおよその意味を考えるだけで充分です。例えば、阿頼耶識って、サッパリわかりませんが、アーラヤというサンスクリット語の音訳とわかります、ヒマラヤ山脈とはヒマはサンスクリット語のでラヤはと云う意味です。よってヒマラヤ山脈の意味は「雪に覆われた蔵の山々」です。意味を知ると簡単なことです。よって「阿頼耶識とは心の蔵=潜在意識」と云うことです。ですので、アーは、ラヤはです。では、一つづつ見ていきましょう。 

  

唯識三十頌 ゆいしきさんじゅうじゅ   

世親    せしん 

玄奘三蔵訳 げんじょうさんぞうやく 

  

《帰敬の頌》 

稽首唯識性 けいしゅゆいしきしょう 

満分清浄者 まんぶんしょうじょうしゃ 

我今釈彼説 がこんしゃくひせつ 

利楽諸有情 りらくしょうじょう 

(意訳) 

唯識性において、満(仏)分(菩薩)の清浄者に頭を下げます。 

我、今、彼の説を釈し、諸の有情を利楽せん。 

(現代語訳)  

はじめに 

全ては、心の展開(唯識)だという真実を前にして、仏陀(満)と菩薩(分)、に平伏して深く頭を下げます。 

その真実の世界に深く分け入り、あらゆるもの、あらゆることがらを心の問題とし、すべてを心の要素と還元して考え、得られた功徳を命ある者達に施しながら、共に無常の悟りに導きます。 

      

1.ātmadharmopacāro hi vividho yaḥ pravartate vijñānaparināme 'sau parināmaḥ sa ca tridhā .                   

由仮説我法 ゆけせつがほう 

有種々相転 うしゅじゅそうてん 

彼依識所変 ひえしきしょへん 

此能変唯三 しのうへんゆいさん 

(意訳) 

仮に由りて我法ありと説く。 

種々の相、転ずること有り。 

彼は識の所変に依る。 

此の能変は唯し三つなり。 

(現代語訳) 

方便として、仮に我(自分)と法(周りにある色、対象物)の実態が有るとします。 

自分を含めて、あらゆるものが「色即是空・空即是色」、絶えず変化しています(一切皆空)が、そのことを理解できずに、ありのままの世界(法)を見ることができず、ありのままに自分(我)を受け入れることもできません。無知な思考(識)がつくりだす幻のなかをさまよい歩いてしまいます。悲しいかなそれが私たちの姿です。 

よってここに、この世界を作り出すのは「唯識」ただ心の展開、心が作り出したものであり、すべては唯識であることを論じます。 

まずはじめに、つくりだす思考は三つの心の展開(能変)だけが有るのです。 

 

2.vipāko mananākhyaś ca vijñāptir viṣayasya ca tatrālayākhyaṃ vijñāṃ vipākaḥ sarvabiijakam. 

謂異熟思量 いいじゅくしりょう 

及了別境識 ぎゅうりょうべつきょうしき 

初阿頼耶識 しょあらやしき 

異熟一切種 いじゅくいっさいしゅ 

(意訳) 

謂わく異熟と思量と、 

及び了別境との識なり。 

初めは阿頼耶識なり。 

異熟なり一切種なり。 

(現代語訳) 

三つの能変とは、 

過去にどんな因縁があったのか知る由もありませんが、この世に命ある限り私達は思考し続けます。命がつきて生まれ変わった後も、やはり同じことでしょう(異熟識)。 

しかし思考するときには私たちの迷いの心が常につきまといます(思量識)。 

この迷いの心に染められた思考によって感覚器官からたえず入ってくる情報により、正しく世界や自分の姿を見つめているつもりでも実際には迷いの心によってゆがめられた虚像を見てしまいます(了別境識)。 

これが私たちの思考というものの姿です。 

三つの能変のうち最初に挙げた識体は阿頼耶識と呼びます。 

異熟識とも一切種子識ともいわれます。 

 

3.asaṃvidi takopādisthānavijñaptikaṃ ca tat sadā sparśamanaskāravitsaṃjñāce tanānvitam. 

不可知執受 ふかちしゅうじゅ 

処了常与触 しょりょうじょうよそく 

作意受想思 さいじゅそうし 

相応唯捨受 そうおうゆいしゃじゅ 

(意訳) 

不可知の執受と 、 

処と了なり。常に触と、 

作意と受と想と思と 、 

相応す唯し捨受のみなり。 

(現代語訳) 

私たちに思考する正しい力が備わっていれば、あれこれと思い迷うことがないのですが、私たちには過つ思考する機能(執受)があって、私たちの前には思考の対象となる世界(処)があり、私たちはそのように世界をとらえる(了)ようになっています。目や耳などの感覚器官はたえず色や音などに反応し(触)その色や音に思いを向けることができ(作意)そこからなにかしらの感情が起こり(受)言葉や概念にあてはめて理解しようとし(想)意思をもって行動しようとします(思)。私たちがこのような営みを繰り返すこと、それ自体は苦楽の感覚を離れた平静で自然なこと(捨)なのです。 

 

4.upekSaa vedanaa tatraanivRtaavyaakRtaM ca tat tathaa sparZaadayas tac ca vartate srotasughavat. 

是無覆無記 ぜむふくむき 

触等亦如是 そくとうやくにょぜ 

恒転如暴流 ごうてんにょぼうる 

阿羅漢位捨 あらかんにしゃ 

(意訳) 

是れ無覆無記なり。 

触等も亦、是の如し。 

恒に転ずること暴流の如し。 

阿羅漢の位に捨す。 

(現代語訳) 

阿頼耶識の性質は善でも悪でもなく、汚れによって覆われているわけでもありません(無覆無記)。感覚器官(触)も同じです。阿頼耶識は過去から未来へと途切れることなく連続する大きくうねりながら流れ、とどまることがない大河の流れに喩えられます。 

こうした阿頼耶識は、阿羅漢と呼ばれる清浄な境地に至れば止滅します。 

  

5.tasya vyaavRttir arhatve tadaazritya pravartate tadaalambaM manonaama vijJaanaM mananaatmaakam . 

次第二能変 しだいにのうへん 

是識名末那 ぜしきみょうまな 

依彼転縁彼 えひてんねんぴ 

思量為性相 しりょういしょうそう 

(意訳) 

次は第二能変なり、 

是の識を末那と名づく、 

彼に依りて転じて彼を縁ず 

思量するを性とも相とも為す。 

(現代語訳) 

私たちには思考する機能があって、私たちの前には思考の対象となる世界があります。思考しやすい土壌があるところにいわゆる自我意識(末那)が芽生えてきます。 

これが思考の幻を生み出す(能変)第二の能変です。 

自我意識はあれこれと思いめぐらす(思量)ことをその本質(性)としています。しかし常に四つの煩悩に駆り立てられて感覚器官を働かし(触)たりしているので自分自身や世界をありのままに見ているつもりでも結果的に色眼鏡に映った像(相)を見ているのです。 

  

6.klezaiz caturbhiH sahitam nivRtaavyaakRtaiH sadaa aatmadRSTyaatmamohaatmamaanaatmasnehasaMjJitaiH. 

四煩脳常倶 しぼんのうじょうく 

謂我癡我見 いがちがけん 

并我慢我愛 びょうがまんがあい 

及餘触等倶 ぎゅうよそくとうく 

(意訳) 

四つの煩悩と常に倶なり。 

謂わく我癡と我見と、 

并びに我慢と我愛となり。 

及び余と触等と倶なり。 

(現代語訳) 

四つの煩悩とは、 

あらゆるものは移ろい行く。という諸行無常のことわりは、私たち自身にもあてはまります。 

目を背けたくなる事実から、つい目を背け(我癡)むしろ自分自身へのとらわれや所有欲を芽生えさせ(我見)美しくありたいとか、良いものを持ちたいという欲求を持ち(我慢)自分自身への執着をどんどん深めていく(我愛)ことです。

 

7.yatrajas tanmayair anyaiH sparZaadyaiz caarhato na tat na nirodhasamaapattau maarge lokottare na ca. 

有覆無記摂 うふくむきしょう 

隨所生所繋 ずいしょしょうしょけ 

阿羅漢滅定 あらかんめつじょう 

出世道無有 しゅっせどうむう 

(意訳) 

有覆無記に摂めらる。 

所生に随って繋せらる。 

阿羅漢と滅定と、 

出世道とには有ること無し。 

(現代語訳) 

私たちの心がどれぐらい安らかであるか、によって(所生に随って)これら煩悩の燃え上がり方も変わってきますが、いずれにしても自我意識はたえず汚れています(有覆無記)。究極的に迷いを離れた境地(阿羅漢)に至るか、瞑想によっていわゆる無の境地(滅定)に入るか、この世ならぬ清らかな修行の道(出世道)を歩むか、厳しい決意のなかに生きる以外に、この自我意識の炎をしずめるすべはないのです。 

 

8.dvitiiyaH pariZaamo 'yaM tRtiiyaH saDvidhasya yaa viSayasyopalabdhiH saa kuzalaakuzalaadvaya. 

次第三能変 しだいさんのうへん  

差別有六種 しゃべつうろくしゅ 

了境為性相 りょうきょういしょうそう 

善不善倶非 ぜんぶぜんくひ 

(意訳) 

次の第三能変は、 

差別なること六種有り。 

境を了するを性とも相とも為す。 

善と不善と倶非となり。 

(現代語訳) 

執着に駆り立てられた自我意識の炎を消すことのないまま私たちは六つの感覚器官を働かせて生きています。これが思考の幻を生み出す(能変)第三の脳変です。 

眼によって色や形を把握し、耳によって音を聞き分け、鼻によって香りを知る。舌によって味を感じ、手などによって感触をとらえ、脳によって存在するもの全般を考える。これら六つの感覚器官は、それぞれの対象(境)を把握(了)することをその本質(性)としていて感覚器官から得られる像(相)をもとに私たちは思考するのです。 

  

9.sarvatragair viniyataiH kuzalaiz caitasair asau saMprayuktaa tathaa klezair upaklezais trivedanaa. 

此心所遍行 ししんじょへんぎょう 

別境善煩脳 べっきょうぜんぼんのう 

隨煩脳不定 ずいぼんのうふじょう  

皆三受相応 かいさんじゅそうおう 

(意訳) 

此の心所は遍行と、 

別境と善と煩悩と 

随煩悩と不定となり。 

皆、三の受と相応す。 

(現代語訳) 

感覚器官は対象に関する情報を正確につかむと思いがちですが、客観的な対象の把握など本当に可能なのでしょうか。 

良し悪しの感情や、あるいは善悪いずれでもない(倶非)心のはたらきをともなって感覚器官を用いているので対象を正確につかむことはできるはずがありません。好きなようにイメージを膨らませているのが本当のところでしょう。 

私達は善悪の感情など、さまざまな精神作用(心所)をともないながら六つの感覚器官をもちいて対象をとらえ快、不快、あるいは快不快のいずれでもないと感受(三受)しているのです。 

 

10.aadyaaH sprarzaadayaZ chandaadhimokSasmRtayaH saha samaadhidhiibhyaaM niyataaH zraddhaatha triir apatrapaa. 

初遍行触等 しょへんぎょうそくとう 

次別境謂欲 しべつきょういよく 

勝解念定慧 しょうげねんじょうえ 

所縁事不同 しょえんじふどう 

(意訳) 

初の遍行とは触等なり。 

次の別境とは謂わく欲と、 

勝解と念と定と慧となり。 

所縁の事不同なり。 

(現代語訳) 

私たちが思考する限り、ともなっているものは遍行です。 

つまり目や耳などの感覚器官はたえず色や音などに反応し(触)、 

その色や音に思いを向けることができ(作意)、 

そこからなにかしらの感覚が起こり(受)、 

言葉や概念にあてはめて理解しようとし(想)、 

意思をもって行動しようとします(思)。 

日常において対象(所縁)としているものはなく迷いなき世界へと向かうための特別な対象なものをとらえようとしたときの精神作用(別境)です。 

迷いなき世界に向かうためには三つの精神が求められます。未来に、はるかな目標を立ててそれを実現しようと願って精進し(欲)先師や経典の言葉についてひとつずつ確信を得て(勝解)意識を散乱させることなくこれまでの習熟に思いをとどめる(念)ことです。またこれら三つの感情が深められていくと、おのずから意識が統一された三昧の状態(定)が得られ明晰に物事を見極められるようになります(慧)。世俗的な暮らしのなかの善なる感情で迷いなき世界へと向かう精神作用(別境)に導く因となるものです。 

  

11. alobhaaditrayam viiryaM prazrabdhiH saapramaadikaa ahiMsaa kuzlaaH klezaa raagapratighamuuDhayaH. 

善謂信慚愧 ぜんにしんざんき 

無貪等三根 むとんとうさんこん 

勤安不放逸 ごんあんふほういつ  

行捨及不害 ぎょうしゃきゅうふがい 

(意訳) 

善とは謂わく信と慚と愧と、 

無貪等の三根と、 

勤と安と不放逸と、 

行捨及び不害となり。 

(現代語訳) 

穏やかで静かな状態になり(信)みずからを省みて反省し(慚)他者からの評判をおそれて罪過を恥じらい(愧)金銭や名誉などに執着せず(無貪)危害を加えてくるものにも慈しみを注ぎ(無瞋)正しいことわりを受けとめ(無痴)これら善なる感情のもとに向上心を抱き(勤)身心が柔軟にはたらくようにたもち(安)散漫にならず集中する(不放逸)とともに、とらわれを離れて静かな状態にいたり(行捨)生きとし生けるものに慈愛をそそぐ(不殺生)これら十一種が善なる感情です。 

  

12.maanadRgvicikitsaaz ca krodhopanahane punaH mrakSaH pradaaza iirSyaatha maatsaryaM saha maayayaa. 

煩脳謂貪瞋 ぼんのういとんじん 

癡慢疑悪見 ちまんぎあっけん 

隨煩脳謂忿 ずいぼんのういふん  

恨覆脳嫉慳 こんぷくのうしっけん 

(意訳) 

煩悩とは謂わく貪と瞋と、 

癡と慢と疑と悪見となる。 

随煩悩とは謂わく忿と、 

恨と覆と悩と嫉と慳。 

(現代語訳) 

一方で世俗的な日常のなかには悪なる感情もわきあがってきます。それは、六種の根本的な煩悩です。 

手に入れた金銭や名誉などに喜びふけり(貪)不愉快な想いを抱いてつい他者を憎み(瞋)穏やかに生きていくために思索するすべを知らず(癡)他愛もないはずの自分にうぬぼれを抱き(慢)正しいことわりを疑って雑念にとらわれ(疑)ありもしない自分らしさにこだわる(悪見)。これら六種が悪なる感情なのです。これら根本的な煩悩につきまとう多くの感情を随煩悩といいます。 

損失をこうむることにいらだち(忿) 

許す気になれず怒り続け(恨) 

悪行をしても素直に認めず(覆) 

激しい言葉で罵倒し(悩) 

自分よりも優れている人を妬み(嫉) 

施しの感情を持たず(慳) 

  

13.zaaThyaM mado 'vihiMsaahriir atrapaa styaanam uddhavaH aazraddhyam atha kausiidyaM pramaado muSitaa smRtiH. 

誑諂与害憍 おうでんよがいきょう 

無慚及無愧 むざんぎゅうむぎ 

掉挙与惛沈 でうこよこんじん 

不信并懈怠 ふしんびょうけだい 

(意訳) 

誑と諂と害と憍と、 

無慚と及び無愧と、 

掉挙と惛沈と、 

不信と并びに懈怠。 

(現代語訳) 

他者を欺いて自分の過ちを隠し(誑) 

外見の見せかけだけをつくろって(諂) 

生き物を殺したり危害を加えたり(害) 

自分自身の境遇におごりたかぶり(憍) 

みずから反省する気持ちを持たず(無慚) 

周囲を気にして恥じらうことなく(無愧) 

意識がたかぶってそわそわし(掉挙) 

意識がぼんやりして理解力を欠き(惛沈) 

正しいことわりを希求しようとせず(不信) 

気力なく怠けてしまい(懈怠) 

  

14.vikSepo 'saMprajanyaM ca kaukRtyaM middham eva ca vitarkaz ca vicaaraz cety upaklezaa dvaye dvidhaa. 

放逸及失念 ほういつぎゅうしつねん 

散乱不正知 さんらんふしょうち 

不定謂悔眠 ふじょういけみん 

尋伺二各二 じんしにかくに 

(意訳) 

放逸と及び失念と、 

散乱と不正知となり。 

不定とは謂わく悔と眠と、 

尋と伺。二に各二あり。 

(現代語訳) 

正しく実践する意欲を持たず(放逸) 

集中力を欠いてしまい(失念) 

欲望にかられて意識が乱れ(散乱) 

正しくものごとを知らずに行動してしまう(不正知)。 

これら二十種の感情が煩悩に付随して起こるのです。善でも悪でもありうる精神作用(不定)です。 

自分がなした行為にたいして後悔を抱く(悔)ときや、眠気におそわれて意識が働かなくなる(眠)ときや、浅い次元での思考(尋)や、深い次元での思考(伺)を行うときの精神は、それが煩悩につきまとわれているうかどうかによって善とも悪ともいえます。 

私達にはこのようにさまざまな精神作用をともなっているのです。 

  

15.paJcaanaaM muulavijJaane yathaapratyayam udbhavaH vijJaanaaM saha na vaa taraGgaaNaaM yathaa jale. 

依止根本識 えしこんぽんじき 

五識隨縁現 ごしきずいえんげん 

或倶或不倶 わっくわくふく 

如濤波依水 にょとうはえすい 

(意訳) 

根本識に依止す。 

五識は縁に随って現じ、 

或は倶となり或は倶ならず。 

濤波の水に依るが如し。 

(現代語訳) 

たくさん投げるとそれだけ波がたつ。しかし川の水はとうとうと流れていく。思考する存在(根本識)としてある私たちは川の水面の波のごとくに五感から情報(五識)を刻々と受け取ってそれを脳(意識)に伝達しています。 

  

16.manovijJaanasaMbhuutiH sarvadaasaMjJikad rte samaapattidvyaan middhaan muurchanaad apy acittakaat. 

意識常現起 いしきじょうげんき 

除生無想天 じょしょうむそうてん 

及無心二定 ぎゅうむしんにじょう 

睡眠与悶絶 ずいみんよもんぜつ 

(意訳) 

意識は常に現起す。 

無想天に生じたると、 

及び無心の二定と、 

睡眠と悶絶とを除く。 

(現代語訳) 

五感が働いていないときも脳は常に働いています。 

脳の働きを持たない存在(無想天)として生まれたのでないかぎり、瞑想によって脳の働きに振り回されなくなったときや、さらに瞑想を深めて自我意識へのとらわれもなくして、無の境地(滅尽定)に入ったとき(無心の二定=無想定・滅尽定)や、深い眠りについているとき(睡眠)や、気を失うほど苦しんでいるとき(悶絶)を除けば脳は常に働いています。 

  

17.vijJaanaparinaamo 'yam vikalpo yad vikalpyate tena tan naasti tenedaM sarvaM vijJaptimaatrakam. 

是諸識転変 ぜっしょしきてんぺん 

分別所分別 ふんべつしょふんべつ 

由此彼皆無 ゆしひかいむ 

故一切唯識 こいっさいゆいしき 

(意訳) 

是の諸の識転変して、 

分別たり所分別たり。 

此に由りて彼は皆無し。 

故に一切唯識のみなり。 

(現代語訳) 

私たちは思考する存在であり、自我意識によって世界と自分を眺め感覚器官がたえず働くことによって、思考(識)が生成しては変化して(転変)いきます。思考の中においては私たち自身のイメージ(分別)が世界のイメージ(所分別)をとらえたつもりになっていますが実際には思考が生み出したイメージ(分別)に執着しているにすぎません(一切唯識)。私たち自身というものも世界というものも存在するとは言い切れないのです。 

  

18.sarvabiijaM hi vijJaanaM pariNaamas tathaa tathaa yaaty anyonyavazaad yena vikalpaH sa sa jaayate. 

由一切種識 ゆいっさいしゅうしき  

如是如是変 にょぜにょぜへん 

以展転力故 いちんでんりつこ  

彼彼分別生 ひひふんべつしょう 

(意訳) 

一切種識の、 

是の如く是の如く変するに由りて、 

展転する力を以ての故に、 

彼彼の分別生ず 

(現代語訳) 

アーラヤ識という私たちのあらゆる迷いを生み出す源泉(一切種識)はこのように感覚器官の知覚や自我意識にたえざる変化をもたらします。 

  

19.karmazo vaasanaa graahadvayavaasanaya saha kSiiGe puurvavipake 'nyad vipaakaM janayanti tat. 

由諸業習気 ゆしょごうじゅっけ 

二取習気倶 にしゅじゅっけく 

前異熟既尽 ぜんにじゅくきじん 

復生余異熟 ぶしょうよいじゅく 

(意訳) 

諸の業の習気じっけと、 

二取の習気と倶なるに由りて、 

前の異熟既に尽きたならば、 

復、余の異熟を生ず。 

(現代語訳) 

そして感覚器官の知覚や自我意識のはたらきによって自分自身と世界(二取)にとらわれた私たちの行為(諸業)は、未来に対してなにかしらの影響力(習気)を与えますがそれは私たちのあずかり知らぬところで縁を結んでいくものであり、どのようにアーラヤ識という源泉から未来が熟成されてくる(異熟)かはまったくわからないのです。 

  

20.yena yena vikalpana yad yad vastu vikalpyate parikalpita evaasau svabhaavo na sa vidyate. 

由彼彼遍計 ゆいひひへんげ 

遍計種種物 へんげしゅうじゅうもつ 

此遍計所執 しへんげしょしゅう 

自性無所有 じしょうむしょう 

(意訳) 

彼彼の遍計に由りて、 

種種の物を遍計す。 

此の遍計所執の 、 

自性は所有無し。 

(現代語訳) 

かくして三つのことわりが成立することになります。 

遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)思考のなかのイメージは世界や自分自身を好き勝手に思い描いている(遍計)幻ですから、本質(自性)としてはそのとおりには存在しないのです。 

  

21.paratantrasvabhaavas tu vikalpaH pratyayodbhavaH niSpannas tasya puurveNa sadaa rahitataa tu yaa. 

依他起自性 えたきじしょう  

分別縁所生 ふんべつえんしょしょう 

円成実於彼 えんじょうじつおひ 

常遠離前性 じょうおんりぜんしょう 

(意訳) 

依他起の自性は、 

分別は縁に生じ、 

円成実は彼が於に 、 

常に前を遠離せる性なり。 

(現代語訳) 

依他起性(えたきしょう)私たちはさまざまな精神作用や自我意識が原因(縁)となって、世界や自分自身を思い描いている(分別)にすぎません。 

円成実性(えんじょうじっしょう)したがって仏教において目指すものは、思考の幻を成り立たせるこれらの原因を常に離れて、あるがままの完全(円成実)なる境地に入っていくことなのです。 

あらゆるものは移ろいゆく(無常)移ろいゆくということわりは不変です。同じようにあらゆる迷いはたえず生み出されていきますが(依他起)迷いが生み出されていくということわりは迷いを離れています(円成実)。 

  

22.ata eva sa naivaanyo naananyaH paratantrataH anityataadivad vaacyo naadRSTe 'smin sa dRzate. 

故此与依他 こしよえた  

非異非不異 ひいひふい 

如無常等性 にょむじょうとうしょう 

非不見此彼 ひふけんしひ 

(意訳) 

故に此は依他と、 

異にも非ず不異にも非ず。 

無常等の性の如し。 

此れを見ずして彼をみるものには非ず。 

(現代語訳) 

依他起性と円成実性は異なる性質のものでありますが(不異にも非ず)完全に異なるとも言い切れないのです(異にも非ず)。迷いの奥底にある真実(円成実)に照らされたときにはじめて迷いを生み出すことわり(依他起)を知るでしょう。 

  

23.trividhasya svabhaavasya trividhaaM niHsvabhaavataa. 

即依此三性 そくえしさんじょう 

立彼三無性 りっぴさんむしょう 

故仏密意説 こぶつみっちせつ 

一切法無性 いっさいほうむしょう 

(意訳) 

即ち此の三性に依りて、 

彼の三無性を立つ。 

故に仏密意をもって、 

一切の法は性無しと説く。 

(現代語訳) 

先に三つのことわりについて説きました。それはすなわち、 

(1)遍計所執性 私たちは思考のなかの幻にとらわれて生きています。 

(2)依他起性 その幻は自我意識にとらわれて世界と自分自身を見るがゆえに生み出されます。 

(3) 円成実性 思考の幻を生み出す原因を離れればおのずからそこに平穏な境地があります。 

見方を変えたときにはこれらのことわりはあらゆるものは実体を持たないことを三つの観点から示すものでもあります。 

  

24.prathamo lakSaNenaiva niHsvabhaavo 'paraH punaH na svavyaMbhaava etasyety aparaa niHsvabhaavataa. 

初即相無性 しょそくそうむしょう  

次無自然性 しむじねんしょう 

後由遠離前 ごゆおんりぜん 

所執我法性 しょしゅうがほっしょう 

(意訳) 

初は即ち相無性。 

次は無自然の性。 

後のには前の 

所執の我法を遠離せるに由る性なり。 

(現代語訳) 

相無自性は思考のなかの幻は実体をもちません(相無性)。 

生無自性は、世界(法)と自分自身(我)は自我意識という原因なくしてひとりでには存在しません(無自然の性) 

勝義無自性は、あるがままにこの世に処する境地においては世界と自分自身へのとらわれを完全に離れています。 

したがって、この三つのことわりは、仏教がその最初の頃から説いてきた諸法無我、すなわちあらゆるものは無我であり実体を持たない(無性)ことを少し違ったかたちで示しているにすぎないのです。いま述べている学説は、お釈迦さまの教えに違背するものではありません。 

  

25.dharmaaNaaM paramaarthaz ca sa yatas tathataapi saH sarvakaalaM tathaabhaavaat saiva vijJaptimaatrataa. 

此諸法勝義 ししょほつしょうぎ  

亦即是真如 やくそくぜしんにょ 

常如其性故 じょうにょごしょうこ  

即唯識実性 そくゆいしきじっしょう 

(意訳) 

此れは諸法の勝義なり、 

亦は即ち是れ真如なり。 

常如にして其の性たるが故に、 

即ち唯識の実性なり。 

(現代語訳) 

だからこれはまさしくあらゆるものに通底する正しいことわり(勝義)であり、同時にまたあるがままの姿(真如)でもあります。 

私たちが思考へのとらわれを離れてあるがままに処することを望むならば、これらのことわりは私たちのあらゆる日常を貫く道しるべとなります。 

またその本質(実性)を端的にいえばすべては思考にすぎない(唯識)ということです。 

  

26.yaavad vijJaptimaatratve vijJaanaM naavatiSThati graahadvayasyaamuzayas taavan na vinivartate. 

乃至未起識 ないしみきしき  

求住唯識性 ぐじゅうゆいしきしょう 

於二取隨眠 おにしゅずいみん 

猶未能伏滅 ゆうみのうぶくめつ 

(意訳) 

乃し識を起して、 

唯識の性に住せんと求めざるに至るまでは、 

二取の随眠に於て、 

猶、未だ伏し滅すること能わず。 

(現代語訳) 

唯識を体得して幻から解き放たれていくステップは下記の通りです。 

第1ステージ(資糧位) 

まずはすべては思考の産物にすぎない(唯識)ことを理解する段階です。 

とはいえ理解することと完全に体得することは別物です。この段階では世界があって自分がいる(二取)という思考を潜在的に持っている(随眠)ままです。 

  

27. vijJaptimaatram evedam ity api hy upalambhataH sthaapayann agrataH kiMcit tanmaatre naavatisthate. 

現前立少物 げんぜんりっしょうもつ 

謂是唯識性 いぜゆいしきしょう 

以有所得故 いうしょうとくこ 

非実住唯識 ひじじゅうゆいしき 

(意訳) 

現前に少物を立て 、 

是れ唯識の性なりと謂う。 

所得有るを以ての故に、 

実に唯識に住するに非ず。 

(現代語訳) 

修行の第2ステージ(加行位) 

すべては思考の産物にすぎないということの理解が進み、これを体得しようという気力に満ちて修行に励む段階です。 

しかしながら思考のなかにはあいかわらず自我意識によって生み出された幻への執着が依然として残っている(有所得)状態です。 

  

28.yadaa tv aalambanaM jJaanaM naivopalabhate tadaa sthitaM vijJaana(apti)maatratve graahyaabhaave tadagrahaat. 

若時於所縁 にゃくじおしょえん 

智都無所得 ちとむしょとく 

爾時住唯識 にじじゅうゆいしき  

離二取相故 りにしゅそうこ 

(意訳) 

若し時に所縁の於に、 

智都て所得無くなる。 

爾の時に唯識に住す。 

二取の相を離れるが故に。 

(現代語訳) 

修行の第3ステージ(通達位) 

修行を重ねていくと思考の対象(所縁)となるものを理解(智)しようという執着が完全になくなる(無所得)瞬間が訪れます。このときにはじめて思考する対象も思考する自分もなくなり、すべて思考の産物にすぎないということわりを体感する時期です。 

  

29.acitto 'nupalambho 'sau jJaanaM lokottaraM ca tat aazrayasya paraavRttir dvidhaa dauSThulyahaani taH. 

無得不思議 むとくふしぎ  

是出世間智 ぜしゅつせけんち 

捨二麤重故 しゃにそじゅうこ  

便証得転依 べんしょうとくてんね 

(意訳) 

無得、不思議なり。 

是れ出世間の智なり。 

二の麤重を捨するが故に、 

便ち転依を証得す。 

(現代語訳) 

修行の第4ステージ(修習位) 

先のステージで正しいことわりを体感することができた瞬間は執着を完全にはなれた(無得)不可思議(不思議)な境地に他なりません。 

この瞬間に世俗的な知見とはまるで違う知の地平(出世間智)が開かれてきます。しかし、昔からあやまった考えと、くもった心を持って生きてきたことの影響が私たちの奥底に習慣化されて根強く残っています。 

これらの二種の障害(麁重)を、絶やしてしまうとき私たちの存在のありかたは根本的に変わります(転依)。 

  

30.sa evaanaasravo dhaatur acintyaH kuzalo dhruvaH sukho vimuktikaayo 'sau dharmaakhyo 'yaM mahaamuneH. 

此即無漏界 しそくむろかい  

不思議善常 ふしぎぜんじょう 

安楽解脱身 あんらくげだつしん  

大牟尼名法 だいむにみょうほう 

(意訳) 

此は即ち無漏界なり。 

不思議なり。善なり。常なり。 

安楽なり。解脱身なり。 

大牟尼なるを法と名づける。 

(現代語訳) 

修行の第5ステージ(究竟位) 

私たちのありかたが根本的にかつ永続的に変わったとき、そこにあるのは迷いなき世界(無漏界)であり、言語を超えた不可思議な世界(不思議)であり、極めて安穏な(善)であり、生滅のことわりを離れて(常)おり、悩むことなく寂静(安楽)なる世界です。 

二種の障害のうちくもった心をすべて断ち切って、解脱して自由になった境地(解脱身)を享受するだけでも平穏な境地に至れるかもしれません。 

しかし大乗仏教はあらゆる人々と平穏に生きるためのものですから正しいことわりを知り尽くして迷える人々を教え導こうと志してください。 

それが聖者(大牟尼)のごとく世界に遍在する真理(法)として生きることです。 

  

《釈結施願分》 しゃけつせがんぶん  

已依聖教及正理 いえしょぎょうぎゅうしょうり  

分別唯識性相義 ふんべつゆいしきしょうそうぎ 

所獲功徳施群生 しょぎゃくくどくせぐんじょう 

願共速登無上覚 がんぐそくしょうむじょうかく 

(意訳) 

已に聖教と及び正理とに依りて、 

唯識の性と相との義を分別しつ、 

所獲の功徳をもって群生に施す。 

願わくは共に速やかに無上覚を証せん。 

(現代語訳) 

以上、清らかな教えと正しい考え方、ものの捉え方によって、すべては我が心の展開だという真実と、それについての唯識実性への道を歩みはじめ功徳を少しでも得られたならば、生命あるもの達に振り向け、そして、皆と一緒にこの上ない覚りの境地を共有したいと思います。 

 

 

《摂大乗論(マハーヤーナサングラハ)》 

 

インド大乗仏教の論書。 

無著(アサンガ)著。 

4世紀の成立。 

サンスクリット語原典は散逸し、チベット語訳と4種の漢訳(仏陀扇多訳,真諦訳,玄奘訳,達摩笈多訳)が現存します。 

瑜伽行唯識派(ゆがぎようゆいしきは)の立場から大乗仏教の全体を体系化したもので、10章からなり、アーラヤ識の三性(さんしよう)説を中心に唯識を説き、六波羅蜜、十地、三学、涅槃、仏身まで論じています。 

  

弥勒→無著→真諦→玄奘  玄奘三蔵は、この教えを真諦から学んでいます。 

  

実践仏教の原点です。特に、悟りに至る六波羅蜜の実践方法が詳しく述べられ、これこそ般若波羅蜜多心経の神髄、行深=六つの波羅蜜(智慧)の具体的方法です。 

しかし、この摂大乗論だけでは瑜伽唯識は完成にいたらず、玄奘三蔵は命を懸けて天竺への旅を決意します。その玄奘三蔵が探していた書がヨーガ・チャーラブーミ(瑜伽行者論)です。 

ただ、ヨーガ・チャーラブーミは100巻もあり膨大な経典数を誇り、我々一般人には読むだけで一生が終わってしまいます。読めたとしても理解不能でしょう。そこへ、無著の実弟である世親(ヴァスバンドゥ)が、30にまとめ上げたものが先にあげた唯識三十頌です。この二つ摂大乗論と唯識三十頌で車の両輪の如く瑜伽唯識の実践仏教の完成に至ります。 

この功績は玄奘三蔵による漢訳で日本の法相宗(日本で一番古い仏教・奈良の興福寺や薬師寺が本山です。)の経典(成唯識論)になっています。 我々がこの教えに触れられることは奇跡です。 

  

 《摂大乗論の全体像》 

  

 1.応知依止勝相品第(阿頼耶識・縁起) 

 2.応知勝相品第(三性・実相) 

 3.入応知勝相品第(唯識観) 

 4.入因果勝相品第(六波羅蜜) 

 5.入因果修差別勝相品第(十地) 

 6.依戒学勝相品第(戒) 

 7.依心学勝相品第(定) 

 8.依慧学勝相品第(慧) 

 9.学果寂滅勝相品第(無住処涅槃) 

10.智差別勝相品第(仏の三身) 

  

摂大乗論と唯識三十頌は説明が被るところが多々あり、以下に被らない(唯識三十頌には書かれていない)重要なところを簡単にまとめてみました。また、唯識三十頌には書かれていますが、摂大乗論には書かれていない箇所も当然にあるわけで、そこが玄奘三蔵の探し求めていたところになります。その場所は唯識三十頌のほうで明示したいと思います。 

六波羅蜜とは  

1.《布施》 

ふせ ほどこす 

人のために惜しみなく何か善いことをする。善行には有形と無形のものがあり有形のものを財施といいます。お金や品物などを施す場合です。無形のものは、 知識や教えなどの法施、明るく優しい顔で接する眼施、温かい言葉をかける言施、恐怖心を取り除き穏やかな心を与える無畏施、何かをお手伝いする身施、善い行いをほめる心施、場所を提供する座施、などがあります。施しは、施す者、施しを受ける者、施す物、すべてが清らかでなければなりません。欲張りのない心での行いです。あえて善行として行うとか、返礼を期待してはいけません。また受ける側もそれ以上を望んだり、くり返されることを期待してはいけません。 

2.《持戒》 

じかい つつしむ  

 本分を忘れずにルールを守った生き方で、人間らしく生活することです。自分勝手に生きるのではなく、互いに相手のことを考えながら、仲良くゆずりあっていく生活です。 

3.《忍辱》 

にんにく しのぶ 

 悲しいことや辛いことがあっても、落ち込まないで頑張ることです。物事の本質をしっかりとおさえて、時には犠牲的精神を持って困難に耐えることです。 

4.《精進》 

しょうじん はげむ 

 まずは最善をつくして努力すること。良い結果が得られても、それにおごらず、さらに向上心を持って継続することです。 

5.《禅定》 

ぜんじょう 心身を静める 

 心を落ち着けて動揺しないこと。どんな場面でも心を平静に保ち、雰囲気に流されないことです。 

6.《智慧》 

ちえ 学ぶ 

 真理を見きわめ、真実の認識力を得ること。人は誰でも生まれながらにして仏様と同様の心を持っています。欲望が強くなると、単なる知識だけで物事を考えるようになります。知識ではなく智慧の心を以て考えることです。 

  

無住処涅槃(むじゅうしょねはん) 

  

大乗以前の仏教(小乗仏教)では、生きるということそのものが「迷いの生存」というふうに捉えられていて、覚り・涅槃はそういう迷いの生存からの解放・脱出すなわち「解脱(げだつ)」と同一視されていました。ですから、覚った人は輪廻の世界から永遠に解脱して2度と輪廻の世界には戻ってこないことになっていました。といっても、覚ったらすぐ死ぬというわけにはいきません。 

覚ってもまだ体があって生きている状態は、「有余依涅槃(うよえねはん)」と呼ばれ、迷いの生存・煩悩の依りどころである体がまだあるが、心は一応覚りの状態にある。という意味です。 

  

涅槃とは「ニルヴァーナ」を漢音に写したもので、煩悩の炎の消えた状態というふうな意味です。 

しかし、大乗以前の仏教の修行者たちは、欲望を完全になくするには肉体そのものがなくなるほかないと考え、そういう肉体がなくなり欲望もなくなった状態のことを、「無余依涅槃(むよえねはん)」といいます。「依りどころである余計な肉体が無くなって煩悩の炎が完全に消えてしまった状態」という意味です。 

  

それに対して大乗仏教の人々は、そういう考え方は自分ひとりが苦しみの生存の世界から逃れようというちっぽけな考え方、自分しか乗れない小さな乗り物だ、として批判をしました。確かに体がなくなれば煩悩もなくなり、自分は楽になるかもしれませんが、煩悩に苦しんでいる他の人々を救うことはできません。他の生きているもの=衆生とおなじ体があって初めて、慈悲・救いの実践をすることができます。 

「この体があるままで完全な涅槃に入れる」というのが大乗仏教の特徴的な教えです。私たちの体・生命そのものが、煩悩と迷いの生存の主体であることから解放されて、覚りと慈悲の主体に変容することが可能です。これが無住処涅槃です。