至宝『太極拳論』を発表した王宗岳

 

王 宗岳(おうそうがく)は、清・乾隆年間に活躍した武術家です。拳法、剣法と陰符槍法を得意としていたそうです。

山西省太谷人。1791年 ~1795年にかけて、河南、洛陽、開封などに滞在したとされています。

著書に、中国武術の理論書として有名な『太極拳論』があります。太極拳の名称はこれにより確定されたといっても過言ではありません。ですから、まだ太極拳という呼び方が定着して170年程度です。


『太極拳論』は、1852年に武禹襄の兄の秋瀛によって、舞陽の塩屋にて発見されました。

現在流布している『太極拳論』は、武禹襄(ぶうじょう)や李経綸(りえきょ)などにより研究された後、解説文の追加や文章の変更などがあり、さまざまな版が出版されています。


王宗岳の著作としては、『太極拳論』『太極拳釋名』『十三勢歌』『打手歌』の四編があります。

では、それぞれみていきましょう。

 

太極拳が太極拳たる所以が、王宗岳の「太極拳論」です。

武術としての完成形、理想がすべてココにあります。

 

太極拳を練習する者は、ココに書かれた意味を理解し、精進し続けなければなりません。

しいていえば、武術の練習が我々の身体に太極拳の効果として影響されてきます。

 

太極拳は陰陽の母・・・深淵なる太極拳の世界は、武術を学ぶ先に、人間としての人格完成が重要視されます。

仏陀の法句経の一文「己こそ己のよるべ、己をおいて誰によるべぞ、よく整えし己こそ誠得難きよるべなり」

全ては自分自身なんです。じっくりと味わっていただきたいと思います。

太極拳を練習する者の拠って立つ経典が「太極拳論」です。

 

クラブでは、この太極拳論を中心に套路と推手の練習をします。

くどいようですが・・・

太極拳を学ぶ者の、全ての回答はココにあります。

 

太極拳論 

太極者、無極而生、動静之機、陰陽之母也。

動之則分、静之則合。無過不及、隨曲就伸。

人剛我柔謂之「走」、我順人背謂之「黏」。動急則急應、動緩則緩隨。

雖變化萬端、而理唯一貫。由着熟而漸悟懂勁、由懂勁而階及神明。然非用力之久、不能豁然貫通焉。

虚領頂勁、氣沉丹田、不偏不倚、怱隱怱現。左重則左虚、右重則右杳。

仰之則彌高、俯之則彌深。進之則愈長、退之則愈促。

一羽不能加、蠅蟲不能落。人不知我、我獨知人。

英雄所向無敵、蓋皆由此而及也。

斯技旁門甚多、雖勢有區別、概不外壯欺弱、慢譲快耳 有力打無力、手慢譲手快、

是皆先天自然之能、非關學力而有為也 察「四兩撥千斤」之句、顯非力勝、觀耄耋能禦衆之形、快何能為。

立如平準、活似車輪。偏沉則隨、雙重則滯。

毎見數年純功、不能運化者、率皆自為人制、雙重之病未悟耳。

欲避此病、須知陰陽、黏即是走、走即是黏、陰不離陽、陽不離陰、陰陽相濟、方為懂勁。

懂勁後愈練愈精、黙識揣摩、漸至從心所欲。

本是「捨己從人」、多誤「捨近求遠」。

所謂「差之毫釐、謬之千里」、學者不可不詳辨焉 是為論。

 

さっぱり分かりません。中国語ですから、全て漢文…でも、日本人なら一つ一つ漢字だけを見ていくと、大体の意味は少しなら分かるでしょう。以下におおよその訳文を記しておきます。

 

《訳 文》

宇宙の根源を太極という。 

太極はもともと無で、動静のきっかけにすぎず陰陽の母である。 

ひとたび動けば千変万化を生み、静まればもとの無に帰る。 

この自然法則に逆らうことなく、太極拳の技は過不足なく、相手の曲に従って伸ばす。

相手が力強く己が小力の場合は、逆らわずに流すこと、これをという。 

己を有利な立場におき、相手を不利な方向や体勢におくことをという。

相手が速く動けば、自分も速く動き、人がゆっくり動けば、こちらもそれに従う。

千変万化すれども、そのもとの道理は一つである。

型の積み重ねの稽古により、はじめて「勁」がわかり、「勁」を理解することによって太極拳の極意に到達する。

しかし、長い稽古を経なければ、この境地に達することはできない。

無念無想で気を丹田に沈め、姿勢を正しくすれば、相手の左右の虚実を察知し、

相手の高低の誘い技をも知り、さらに相手の進退をもわかるというふうに、相手の動きに応じた自由自在の変化ができる。

ごく軽やかな虫やハエさえも身に触れさせない。 

人が己を知らず、己が人を知れば向かうところ敵なしである。

武術の流派も多く、その型(技)も多様だが、おおむね強い者が弱い者をいじめ、技の快い者が技の遅い者を負かすだけのことである。

力ある人が力なき人に勝ち、遅い人が速い人にやられる。こんなことは自然の能力であって、稽古を積んで得られることではない。

ごく小さな力で重いものをはねのけることができるのは、あきらかに力で勝てるものではない。

また、老人が大勢に勝つことができるのも、老人の技が速いから勝てたのではない。なんと痛快なことであろうか。

立てば平準(はかり)の如く。動けば車輪の如し。

偏き沈めば動きは崩れ、双重であれば動きが滞る。

何年稽古をしても、応用できなければ、ことごとく人にやられてしまう。これは「双重の病」を悟らないからである。

もしこの病を避けようとするならば、すべからく陰陽を知らなければならない。

粘は走であり、走もまた粘である。 

陰陽は不離であり、相済けてはじめて勁を悟る。

を心得て太極拳を練れば、ますます理解が深まる。

そして黙々と修練を重ねると、しぜんに妙味を会得することができる。

本来は、心を無にして相手の出方に応じるべきものだが、多くの人は誤って近きをすて、遠きを求めてしまう。 

心構えのわずかな差が、修練に千里の隔りをもたらす。

太極拳を学ぶ者は、このことをしっかりわきまえなければならない。

 

*双重の病…両足に50:50の体重が乗った状態では動くことが出来ず、攻撃がワンテンポ遅れてしまう。陰陽、虚実で在れば、陰又は虚の脚で間髪入れずに攻撃が出来るし、移動も容易。

懂勁…勁を理解する。(弓の様に全体から放たれる力)

*神明…非凡の境地。神業の様に極めて巧妙

 

すごいですねぇ~こんなことができるのでしょうか?中国の古典に有名な「老子」がありますが、ご存知の方もおありでしょう。なんとなく太極拳論の言っていることと、老子がリンクするんですよね。インデックス老子道徳経を是非読んでみてください。理解がより深まることでしょう。又、易経の理解も必要です。最低限の陰陽の理解、この世は相対界であること。(例:高い低い、広い狭い、男女、小さい大きい)を理解し、自然の法則(宇宙の真理)の表現である太極拳がいかに崇高なる武術であるかが理解できるでしょう。

 

では、次にもう少し詳しくみていきましょう。

 

①太極者、無極而生、動静之機、陰陽之母也。

動之則分、静之則合。無過不及、隨曲就伸。

人剛我柔謂之「走」、我順人背謂之「黏」。動急則急應、動緩則緩隨。

雖變化萬端、而理唯一貫。由着熟而漸悟懂勁、由懂勁而階及神明。然非用力之久、不能豁然貫通焉。

太極は無極から生ずる。それ自身が動と静の兆しでもある。また、陰と陽が存在しています。動という状態に瞬時に入ると同時に、分の状態になる。静の状態に入ると即、時合の状態になる。

練習するときは、意識と動作の度をうまく掌握して、相手が屈すれば自分がそれについて伸びていき、相手が伸びれば自分もそれにくみして屈し、過ぎることも不足することもないようにする。つまり、相手に抵抗を感じさせないようにすると同時に、相手から離れないようにするのである。

相手が剛になって、自分が柔の態勢をとることを走といい、自分が順調で自由自在な主体的体制にあり、相手が不順調で、ひっかかりがあり、受動的態勢におかれていれば、自分が黏の態勢にあることになる。相手の動きが急であれば、こちらも急で応じ、相手の動作が緩やかであれば、我も緩やかな動作で付き従うのである。動作の変化は万端ありとも、ただただこの道理で終止を貫くべきである。

一つ一つの動作を熟知修練した上で、だんだんと勁の本質を悟り知るようになり、勁を悟ってそれを自由に活用できるようになってから一段一段と技芸が神妙、非凡の境地に入るのである。しかし、これはたやすいことではなく、長い年月の努力を積み重ねなければ、心が開け通じることは不可能である。

 

②虚領頂勁、氣沉丹田、不偏不倚、怱隱怱現。左重則左虚、右重則右杳。

仰之則彌高、俯之則彌深。進之則愈長、退之則愈促。

一羽不能加、蠅蟲不能落。人不知我、我獨知人。

英雄所向無敵、蓋皆由此而及也

頭部を正しく保ち、上空に吸い込まれているような感じで、虚で上方に引率されているようにして、氣と心は下腹に落ち着かせる。

体は一方に偏ることなく、常に中正を保ち、内部の勁は人の予測を許さず、現れたり隠れたりするようにする。自分が左に重を感じれば、即時左を虚にし、右に重を感じれば、即時右を杳にする。相手があおむけば、自分はすぐさま益々長く(遠く)なり、相手が退けば、自分はすぐさま益々促すのである。

自分の身体には小鳥の羽を一本置くことも、蠅一匹降りることも、虫一匹とまることもできないようにする。すなわち、もし置けば、降りれば、止まれば、自分がすぐさまそれを感知して、即時相応に対応できるようにならなければならない。

相手がこちらを知ることができず、こちらだけが相手を知っているようにする。英雄の向くところは無敵なのは、考えてみれば、まさしくこんなところからそのレベルに達しているのである。

 

③斯技旁門甚多、雖勢有區別、概不外壯欺弱、慢譲快耳 有力打無力、手慢譲手快、

是皆先天自然之能、非關學力而有為也 察「四兩撥千斤」之句、顯非力勝、觀耄耋能禦衆之形、快何能為。

 拳法にはいろいろな流派が数多くある。各流派で行われている練習姿勢も多種多様で、様々な区別があるが、それを総括してみると、おおよそ強壮たるものが軟弱たるものをいじめ(すなわち勝ち)、動作ののろい者が動作の素早い者に負けるに他ならないと、いえる。

しかし、力のあるものが力のないものを打ち破り、動作ののろいものが手出しの素早いものに負けるのは、みな体が本来持っている力のもたらす結果でもある。学習の積み重ねとは関係がないのである。

思うに、太極拳修練でよく耳にする四兩の力で千斤の力を弾くという句の表しているのは、明らかに力で勝っている状態ではなく、八十歳九十歳になる老人が数人を相手にして、いかにも軽々と渡り合いしている光景を眺めるにつけ、ただ動作の素早やさに頼るなら、そこで何ができるというのか。

 

④立如平準、活似車輪。偏沉則隨、雙重則滯。

毎見數年純功、不能運化者、率皆自為人制、雙重之病未悟耳。

 自分の身体の持ち方はいつも天秤のように、つまり、平で正しくして、左右の差に機敏に反応できる状態にすべきである。

身体の動作はいつも車輪のように、つまり、活発、機敏、円滑に回れるようにすべきである。一方が重くなれば、物が動き出し、随して付き従うことができる。もし両方とも重くなれば滞る。流れなくなるのは当然である。

往々にしてこんな人がみられる。つまり、数年もまじめに太極拳の修練を続けてきたにもかかわらず、いまだに具体的状況に合わせて臨機応変に活用し、自由に操ることができないのである。そういう人は一般的にいえば、皆みずから相手に制御されているからである。すなわち双重という病に対する認識がいまだにはっきりしていないからである。

 

⑤欲避此病、須知陰陽、黏即是走、走即是黏、陰不離陽、陽不離陰、陰陽相濟、方為懂勁。

懂勁後愈練愈精、黙識揣摩、漸至從心所欲。

 この双重という病を避けたければ、この病を癒やしたければ、陰陽を知らなければならない。

はすなわち走のことで、走はすなわち黏のことである。陰陽が離れず、陽も陰を離れないのである。陰と陽がお互いに助け合って陰陽両者があいまって動くようになると、はじめて懂勁といえるのである。

懂勁の後、修練を積み重ねれば、技が益々完璧に精美になり、こうして常に黙々と認識し、推量詮索しながら勉強していけば、だんだんと動作が心の欲するままに自然と完成されるのである。

 

⑥本是「捨己從人」、多誤「捨近求遠」。

所謂「差之毫釐、謬之千里」、學者不可不詳辨焉 是為論。

もともとこれは、いわゆる己を捨てて人に従うことであるのに、多くの人が誤って理解し、いわば、近きを捨てて遠きを求めるのである。これがことわざの言うところの「毫釐の差より、千里の誤謬を生む」ことである。だから学ぶものは詳しく弁別しなければならないのである。以上を持って論となす。

 

《十三勢歌》

十三总势莫轻视 命意源头在腰隙
变转虚实须留意 气遍身躯不稍滞
静中触动动犹静 因敌变化示神奇
势势存心揆用意 得来不觉费功夫
刻刻留心在腰间 腹内松静气腾然
尾闾中正神贯顶 满身轻利顶头悬
仔细留心向推求 屈伸开合听自由
入门引路须口授 功夫无息法自修
若言体用何为准 意气君来骨肉臣
详推用意终何在 益寿延年不老春
歌兮歌兮百四十 字字真切义无遗
若不向此推求去 枉费功夫贻叹息

 

《訳 文》

十三勢は非常に大事です。その基本は腰にあります。すべての変化が腰で決めれば、重くて滞ることを免れます。

重要なのは「氣」(体内のエネルギー)の動きが穏やか、かつ流暢であることと、落ち着きによって全身に充満し、そうすれば動と静(陰と陽)の変化も流暢に行われるようになり、計り知れない神明な太極拳の使い方が現れるのです。

太極拳を修練時の重要なポイントは、すべての姿勢の正確さと軽と柔、全身エネルギーへの貫通です。これが最も良い効果が得られます。

肝心なのは腰の動きです。太極拳は足と腿、腰と手の協調性を求めていますが、腰はすべてを司る司令塔です。

心(意識)で氣を動かし、逆複式呼吸の重要性を知れば、腹部のリラックスと全身が氣(エネルギー)で満たされる境地に至ります。腰部の正しい動きによって、「尾闾中正神贯顶」の状態が保証されます。

腰の正しい動きは「頂頭懸」によるものであり、体の至るところで軽やかて円滑に動けることにも関連しています。これら様々な説明は日々の練習の中で耐えず研究すべきです。そうすれば動きが自然になってきます。

決して無理はしてはいけません。太極拳は先生の伝授が必要ですが、上達するにはご自分で頑張って修練するしかありません。

太極拳修練の基準は何ですか?意念(自己暗示ではない意識の修練)が主たる物であり、身体能力の訓練は二の次になります。

太極拳修練の目的は何ですか?性格を修練し御身を静養し、落ち着きのある生活を探し求め、健康で老いることです。

 

①十三总势莫轻视 命意源头在腰隙

套路の練習、十三の総勢を軽視してはなりません。身体と精神、その源は腰の隙間(命門穴)にあり、絶えず意識することです。


②变转虚实须留意 气遍身躯不稍滞

姿勢の変化は、必ず虚実(陰陽)に注意し、氣が身体の抹消まで滞りなく行き渡らせます。


③静中触动动犹静 因敌变化示神奇

動は静の中から触発され、心は静の状態であって相手の動作、変化によって、自分の万変なる化(技)を示します。


④势势存心揆用意 得来不觉费功夫

套路の練習は、意念を用いながら意識で導く工夫が必要です。


⑤刻刻留心在腰间 腹内松静气腾然

いつも腰が正しい状態(腰から動く)にあることを意識し、腹部を緩め安定(氣が沈んでいること)した状態(松静)にします。


⑥尾闾中正神贯顶 满身轻利顶头悬

尾闾骨を巻き仙骨を立て(尾闾中正)注意力は頭の天辺まで行き渡らせ全身の軽快感、俊敏性に満ちた動きを心がけます。

 

⑦仔细留心向推求 屈伸开合听自由

常に向上心を持ち細部にまで真理を求め、すべての動作が意識の赴くままに自由に動く練習を怠ってはなりません。


⑧入门引路须口授 功夫无息法自修

入門に際して、先生による口伝による導きが主ですが、自ら根気よく練習を重ねその方法を探し求める工夫を怠ってはなりません。


⑨若言体用何为准 意气君来骨肉臣

精神と肉体、どちらが重要かというと、精神あっての肉体で内面的な修練を優先し技の応用は二の次である。


⑩详推用意终何在 益寿延年不老春

意念で氣を導くこと、その目的は何かというと、健康で寿命をのばして元気が長く保つようにするためです。


⑪歌兮歌兮百四十 字字真切义无遗

この歌、この歌、140字は真に迫り、余すところなし。


⑫若不向此推求去 枉费功夫贻叹息

若し上述のことを求めていかなければ、無駄な時間を費やし、嘆息しか残りません。

 

何気に読むだけではダメです。太極拳を練習しながら体感することが大切です。体感できれば納得がいきます。

量子力学に観測者効果という言葉があります。自分自身の身体に起こったことを自分自身が観測チェックしていきます。

所謂、内観ですね。

太極拳が何故ゆっくり動くのか?は、実は上記の内観が重要だからです。

体内エネルギーの補填としての太極拳という考え方が出来れば、練習そのものの仕方も変わります。

 

まずは、古典に戻ることが大切です。

 

《太極拳釋名 》

 太極拳一名『長拳』一名『十三勢』

長拳者 如長江大海 滔滔不絕也 

十三勢者 掤 擠 按 採 肘 靠 進 退 顧 盼 定也

掤 擠 按 即坎 離 震 兌 四正方也

採 肘 靠 即乾 坤 艮 巽 四斜角也此八卦也

進步 退步 左顧 右盼 中定 即金 木 水 火 土也

此五行也合而言之 

 

《訳 分》

『十三勢』太極拳釋名(たいきょくけんしゃくめい)は、中国武術の、伝統拳としての太極拳の基本功。またの名を「十三勢」という。

楊式太極拳では、「八門五歩」ともいう。

王宗岳の「太極拳釋名」では、以下のように記述されている。

 

太極拳は、別名「長拳」。またの名を「十三勢」という。

長拳は、長江や大海の如く、永遠と絶えることがない。

十三勢は、掤(ポン)、捋(リー)、擠(ジー)、按(アン)、採(サイ)、挒(レツ)、肘(チュウ)、靠(カオ)、の八種の技と、進(シン)、退(タイ)、顧(コ)、盼(ヘン)、定(テイ)の五種の方向で成り立つ。

 

掤、捋、擠、按は、易経の八卦である坎(ケン)、離(リ)、震(シン)、克(ダ)。四正方に相対します。

採、挒、肘、靠は、乾(カン)、坤(コン)、艮(ゴン)、巽(ソン)の四斜角に相対します。

 

進歩、退歩、左顧、右盼、中定は、陰陽五行の五行、すなわち木、火、土、金、水に相対します。

 

八卦の八と五行の五をたして(8+5=13)「十三勢」といいます。

 

《打手歌》 

掤捋擠按須認真、上下相隨人難進。 任他巨力来打我、牽動四両撥千斤。 引進落空合即出、粘連黏隨不丟頂。

掤捋擠按は真面目にやるべし。上下を繋いでおけば相手は入れない。他人はどれほどの強い力で攻め込んでも、四両に力で千斤のパワーを動かそう。相手を自分の懐に誘い力点を与えなければ「合」が上手く出来れば自動的に崩れてしまい、沾、连、粘、随と不丢顶の五つの「太極勁」を常に鍛えよう。

 

①掤捋擠按須認真

・ポン、リー、ジー、アンは特に重要です。

②上下相隨人難進

・自分の手足の動き、全身が調和されれば、容易に相手が攻めてくることはない。

③任他巨力来打我

・相対する者が、我に大きな力で攻めてきても、

④牽動四両撥千斤

・僅かな力で、相手の大きな力の軌道を外すことができます。

⑤引進落空合即出

・相手の力を空虚な力に落とし込めば、即、自分は出ていく。

⑥粘連黏隨不丟頂

・粘(ネン)、連(レン)、黏(ネン)、隨(ズイ)を完成させて優位に立つ。

粘・・・ねばりつく、くっつく、つきまとう

連・・・つらねる、つらなう、つながる

黏・・・ねばる、ねばっこい

隨・・・付き従う、行動を合わせる

 

※陰陽論では、最初の宇宙には万物の根元である「太極」だけが存在していて、天も地もない混沌状態であった。と、記してあります。その太極が「陰と陽」の二元に別れたのです。万物は全てこの陰陽から成り立っています。陰と陽は互いに一体で、相手なしには存在できません。前にも書きましたが、それはこの世の中が相対界の世界だからです。

 

※筮竹(ぜいちく)を使って占いをする易占いはご存知でしょう。そうあの「当たるも八卦、当たらぬも八卦」という言葉、占いの対象となる現象は八卦×八卦で64卦の組み合わせです。それで、様々な運命を読み解いていきます。この64パターンは、なんと!人間のDNAの「遺伝暗号」の64種類と同じなんです。偶然の一致にしては凄すぎます。

 

《太極拳解》

武禹襄

 

武禹襄(ぶ うじょう1812年 ~ 1880年)は、中国武術の武式太極拳の創始者です。姓は武、名は河清。字は禹襄。中国河北省永年県広府鎮東街に生まれ、清の秀才といわれました。武家は、広府鎮の四大名家のひとつで、長兄澄清(字秋瀛)、次兄汝清(字酌堂)とそろって、三兄弟とも武術を好んだといわれています。

楊露禅とは幼馴染で、始めは共に洪拳を学んでいます。その後、広府鎮の太和堂(陳家溝の一族が経営する薬店)にて露禅と共に陳式太極拳を学び研鑽に励みました。楊露禅が陳家溝から帰ると、彼を通じて陳長興の太極拳(大架式)を学んだといわれています。その後、武禹襄自身も、陳家溝に出向いて陳長興に指導を懇願するも、陳長興は老齢かつ多病のため断念しました。その後、趙堡鎮の陳清萍に学ぶに至ります。

兄の秋瀛が再発見した、王宗岳の『太極拳論』などの理論的研究を続け、独自の工夫を加え、新たな武氏太極拳を創造し、甥の李経綸、李承綸に伝えました。

発見された王宗岳の『太極拳論』の原本は焼失したと伝えられ、李経綸(りえきよ)が王宗岳、武禹襄、李経綸の太極拳の理論を手写し、自身と李承綸と郝為真に配った『老三本』が、現在知られている王宗岳の『太極拳論』の根本とされています。武禹襄の著作としては、『十三勢行功要解』、『太極拳解』、『太極拳論要解』、『十三勢説略』などがあります。

      

*楊露禅…楊式太極拳の創始者、現在の制定拳は楊式太極拳をベースに制定されています。

 

十三勢行功要解  

以心行氣、務沉着、乃能収斂入骨、所謂「命意源頭在腰隙」也。

②意氣須換得靈、乃有圓活之趣、所謂「變轉虚實須留意」也。

③立身中正安舒、支撑八面、行氣如九曲珠、無微不到、所謂「氣遍身軀不稍滯」也。

④發勁須沉着鬆静、専注一方、所謂「静中觸動動猶静」也。

⑤往復須有摺畳、進退須有轉換、所謂「因敵變化示神奇」也。

⑥曲中求直、蓄而後發、所謂「勢勢存心揆用意、刻刻留心在腰間」也。

⑦精神能提得起、則無遲重之虜、所謂「腹内鬆静氣騰然」也。

⑧虚領頂勁、氣沉丹田、不偏不倚、所謂「尾閭正中神貫頂、滿身輕利頂頭懸」也。

⑨以氣運身、務順遂、乃能便利從心、所謂「屈伸開合聽自由」也。

⑩心為令、氣為旗、神為主師、腰為驅使、所謂「意氣君來骨肉臣」也。

 

①心を以て氣を運行させ、沈着に務めれば、骨に収容することができる。「生命の源は腰の隙(命門)に在り」のことなり。

②意と氣を交換し得れば、自ずと円満活発の趣現れ、それは生きている人の興味でもあることなり。
③立身は安州の真ん中に立って、8つの側面を支え、氣は曲線のように小さくはなく、いわゆる「氣は少しも停滞していない」。
④発勁は冷静で落ち着いていて、静の中で動を発し、動なお静の如しでなければなりません。

⑤往復に絡み合い、事前の変換と後退、そしていわゆる「敵の変化を通して神奇を見せること」がなければなりません。

⑥曲の中にストレートを追求し、蓄えてのちに発する。いわゆる「勢の一つ一つは心に意図され、腰間に刻まれています」。
⑦精神を奮い起こせば、鈍重の恐れなし、いわゆる「腹は静かで和らぐ」。
⑧頂の勁は虚で引率、氣は丹田に沈んで、偏りがない。尾露は中正、神は頂な貫し、全身を軽利にし、頂頭頸を心掛る。 

⑨氣を以て身を運行させ、順遂に務めれば、ついに便宜に心に従う。これいわゆる屈伸開合全て自由に任すべし。
⑩心が秩序であり、氣が旗であり、神が主人であり、腰が原動力です。これいわゆる意と氣が君、骨肉は臣なり。

 

※原文には段落ごとの数字はありません。分かりやすく私(部長)が付け加えたものです。

※十三勢行功要解は、武禹襄が王宗岳の「太極拳論」と「十三勢歌」に対する見解、解釈、心得です。太極拳の神髄が書かれています。

※太極拳練習者の必須文書です。

 

太極拳解   

身雖動、心貴静、氣須斂、神宜舒。心為令、氣為旗、神為主師、身為驅使。刻刻留意、方有所得。先在心、後在身。在身、則不知手之舞之、足之蹈之、所謂「一氣呵成」、「捨己從人」、「引進落空」、「四兩撥千斤」也。

須知、一動無有不動、一静無有不静。視動猶静、視静猶動。内固精神、外示安逸。須要從人、不要由己。從人則活、由己則滯。尚氣者無力、養氣者純剛。

彼不動、己不動、彼微動、己先動。以己依人、務要知己、乃能隨轉隨接、以己黏人、必須知人、乃能不後不先。

精神能提得起、則無遲重之虜、黏依能跟得靈、方見落空之妙。往復須分陰陽、進退須有轉合。機由己發、力從人借。發勁須上下相隨、乃能一往無敵、立身須中正不偏、方能八面支撑。静如山岳。動若江河。邁歩如臨淵、運勁如抽絲。蓄勁如張弓、發勁如放箭。

行氣如九曲珠、無微不到、運勁如百煉鋼、何堅不摧?形如搏兎之鶻、神似捕鼠之貓。曲中求直、蓄而後發。收則是放、連而不断。極柔軟、然後能極堅剛、能黏依、然後能靈活。氣以直養而無害、勁以曲蓄而有餘。漸至物來順應、是亦知止能得矣!

 

体は動いていますが、心は静かで、氣が必要で、神(精神)は快適です。心は命令であり、氣は旗(目的)であり、神は主人であり、身は駆使を偽す。時々刻々心に留めて、初めて何かを得る。最初は心の中で、その後現実化する。(ナポレオンヒルの成功哲学と同じ)身体では、手の踊り、足の踊り、いわゆる「一気呵成」、「己を捨てて人に従う」、「導き入れて空に落ちさせる」、「四両で千を弾きのける」こと。

知る必要も、動きも、沈黙もない。動きは静止していて、静止は動いています。内なる堅実な精神と外的な安らぎ。我ではなく、他人からのものである必要があります。自己からは停滞です。氣を尊ぶ者は力無し、氣を養う者は純剛(暗頸)である。
相手は動かない、己も動かない、相手はわずかに動いている、己は先に動く。己をもって人によるので、須らく人を知るべし、そうして初めて遅れもせず、先に出ることもしない。

 

精神を奮い起こせば、鈍重の恐れなし。依るもねんするも俊敏についていけば、初めて空に落ちさせる妙が得られる。往復運動は陰と陽に分けられなければならず、進退は須らくせん合あるべし。機は己より発し、力は人から借りています。発勁は須らく上下する必要があります。そうして無敵であり、身体は正しい方向にある必要があります。山のように静か。川のように移動します。林原、絹などの雲人限り。弓を引くように、そして矢のような強い。

 

氣の運行は9ビーズのようであり、強さは100鋼鉄のようであり、そうすれば破壊できないものは無い、精神はネズミを捕らえる猫のように曲の中に直を求め蓄えてのち発する。収はすなわち放であり、連なっていて断たれない。非常に柔らかく、その後非常に強く、粘着性があり、柔軟です。氣は直養で無害であり、強度は十分すぎるほどです。徐々に適応するに至りこれもまた止むを知ることによって得られる。

 

*9ビーズ・・・九曲珠とは、どのような所へも通れると云うこと。

*100鋼鉄・・・百煉鋼とは、鍛えて鍛え、練るに練って鋼鉄を固くすること。

 

 

太極拳論要解

解曰:先在心,後在身。腹鬆,氣斂入骨,神舒體靜,刻刻存心,記一動無有不動,一靜無有不靜。視靜猶動,視動猶靜。動牽往來氣貼背,斂人脊骨。要靜,內固精袖,外示安逸。邁步如貓行,運勁如抽絲。全身意在蓄神,不在氣,在氣則滯。尚氣者無力,養氣者純剛。氣如車輪,腰如車軸。

又曰:彼不動,己不動;彼微動,己先動。似鬆非鬆,將展末展,勁斷意不斷。

 

解して曰く、最初に心に、次に身体に。  腹部の松静、氣は骨に収束し、神は舒(のばす、ひろげるの意味)の状態に体は静止し、心に刻まれ、 動きも静寂も静止もないことを思い出します。  動をなお静と見、静をなお動と見る。

静であるべし、内は精神を固め、外は安逸を示す。    猫のように足を踏み入れると、勁運は絹のようになります。  全身の意は神を蓄えるに在り、氣に在らず、氣にあれば滞る。 氣を尊ぶ者は力無し、氣を養う者は純剛である。  氣は車輪のようなもので、腰は車軸のようなものです。
又曰く、彼が動かねば己動かす、彼微動すれば己先に動く。鬆のようで鬆でなく、伸ばしているようで伸ばしていない。

勁は断ち切っても意は断ち切らない。

 

十三勢説略

每一動,惟手先著力,隨即松開。猶須貫串一氣,不外起、承、轉、合。始而意動,既而勁動,轉接要一線串成。

氣宜鼓盪,神宜內斂。勿使有缺陷處,勿使有凹凸處,勿使有斷續處。其根在腳,發於腿,主宰於腰,形於手指。由腳而腿、而腰,總須完整一氣,向前、退後,乃能得機得勢,有不得機得勢處,身便散亂,必至偏倚,其病必於腰腿求之。上下、前後、左右皆然。

凡此皆是意,不是外面。有上即有下,有前即有後,有左即有右。如意要向上,即寓下意。若將物掀起,而加以挫之之力,斯其根自斷,乃壞之速而無疑。

虛實宜分清楚,一處自有一處虛實,處處總有此一虛實。週身節節貫串,勿令絲毫間斷。

 

すべての動きが、最初は力を入れて、そしてリリース。  一気で貫き、起こし、受け、転じ、結びに保護にならない。最初は意が動く、その後、勁が動く、転じてつなぐところは一線で貫くべし。

氣はコブであるべし、神は内に収斂すべし。欠陥のところを無くし、凹凸のところを無くし、断続の所を無くすべし。

その根は脚にあり、脚において発し、主催は腰にあり、形は指にて現れる。 足から足、そして腰まで、常に完全で、前方と後方にある必要がありますが、勢いを得ることができます。機を得ない、勢いを得ない所があれば、体は散らばり、偏りが必ず現れる、その病気は腰と脚に求められます。  上下、前後、左右皆同じ。
此等は皆意のことを指し、外見の形にあらず。   上下があり、前があり、左があり、右があります。  若し上に向く意があれば、即ち下に向く意を寓すべし。   ものを持ち上げるときまずそれを抑え付ける力を加えるが如し、しからばその根自ずと断ち、速やかに壊れることは疑い無し。
仮想と現実を区別する必要があります。1つの場所に偽りの現実があり、どこにでもそのような偽りの現実が常にあります。  全身が一節一節と一つに貫かれ、糸毛の途切れも無いようにすべし。